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Village Green 全曲解題15「Sitting By The Riverside」
 川のほとりに腰をおろして 両手を大きく広げてみる
 ああ僕は自由だ 世界を制した気分だよ
 そして僕は目を閉じるのさ

 愛に温かく包み込まれて 僕は満ち足りている
 穏やかなまま 静かなままでいさせておくれ
 ああ僕は満足だ 完璧な人生だよ
 そして僕は目を閉じるのさ

 川のほとりに君と一緒に腰をおろして

 川のほとりに腰をおろして
 流れる水を眺めているのが好きなんだ
 なんともこれは 天国にいる気分だね
 柳の木みたいにゆらゆらしてさ

 景色を眺めながらワインを飲んで
 時をやり過ごすのさ


今年の2月に、本当は半年くらいで終了させるつもりで始めたこのVillage Green解題シリーズですが、予定を大幅に延長して、ようやくここに第一弾の完結となります。

スタートしたのが今では遠い過去のようで、最初の頃に何を書いていたのか、書いた本人も忘れてますから、読んでくださった皆さんも、流石にわけ分からなくなっているものとお察しいたします。


さて、最後に取り上げるこの曲については、もうさほど説明を要さないかと思います。
本編のアルバムで7番目に位置してはいますが、僕なりの解釈では、これは全体のエンディングにこそ相応しいものだと思います。

古い言い伝えや慣習の残るヴィレッジ・グリーンを、スターを夢見て飛び出した青年が、ロック界に身を投じて喧噪の日々を送る。
やがて、都会の生活に疲れ果てた彼は、恋人を連れて村に戻るが、以前には古くさいとばかり思っていた、村に伝わる伝統の中にこそ、未来への指針があるのだということに初めて気づく。
そのことを悟って安定した精神を取り戻した彼は、恋人と一緒に川辺に座って、満ち足りた気分で時を過ごす。

と、僕はアルバム全体をこのような流れで捉えてみたのですが、皆さんの解釈はいかがでしょうか?


ところで、作者であるレイ・デイヴィスは、ヴィレッジ・グリーン・プリザベーション・ソサエティの鑑賞については、基本的には受け手の側に委ねる意図を持っていたように感じられます。
だから彼は、アルバムの持つ意味について、あまり多くを語っていません。
ただ、その数少ない発言の中に、彼は僕たちがヴィレッジ・グリーンを理解するためのヒントのようなものを残してくれているので、それをアルバムの解説から引用させていただいて、紹介したいと思います。

「ヴィレッジ・グリーンは現実の世界から自分たちを守るために僕たちが頭の中に築き上げる世界なんだ。現実から逃避することや目を背けることが目的じゃない。ストレスを感じたとき、つらいことがあったときに自分自身の“ヴィレッジ・グリーン”を思い浮かべてみる。そういうことだ」

「皆が集まるクラブみたいなものだろうね。頭の中だけに存在するクラブだね。(中略)あのアルバムに関して何か書こうと思えばいくらでも書けるだろうけれど、あれこれ説明したいとは思わない。言いたいことはひとつだけだ。落ち込んだときはヴィレッジ・グリーンに思いを馳せればいい」

つまりは、僕たちがそれぞれの人生でつまずいた時、何かうまくいかなかった時、そういう時に頼りにする心の拠り所、希望のようなもの、それがヴィレッジ・グリーンだということですね。

確かに僕はいつもこのアルバムから、人を安らかな心にするための、何か特別な力を感じます。


さて、ここでひとまずヴィレッジ・グリーンの解題は終わますが、次への布石をひとつ書いておきます。

当時のレイ・デイヴィスには、辛い時に逃げ込むことのできる、もう一つのヴィレッジ・グリーンがありました。
それは、愛する妻ラサと幼い二人の娘に囲まれた、彼にとっての初めての家庭です。
アルバム発表から5年後、その家庭が崩壊してしまった時に、彼は突如としてヴィレッジ・グリーンの破壊を始めるのです。


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| VillageGreen全曲解題 | 16:56 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
Village Green 全曲解題14「The Village Green Preservation Society」


 僕たちは村の緑を守る会
 神さま、ドナルド・ダックを
 ヴォードビルやバラエティーをお守りください

 僕たちは「やけくそダン」鑑賞会
 神さま、苺ジャムや
 いろんな品種のジャムをお守りください

  古いやり方を見直してごらん
  そこに僕らの新しい生き方があるから
  ほかに何か出来ることがあるかい?

 僕たちは生ビールを守る会
 神さま、ミセス・モップと
 老母ライリーをお守りください

 僕たちはカスタード・パイ賞味会
 神さま、ジョージ十字勲章と
 その受章者たちをお守りください

 僕らの英語はシャーロック・ホームズ訛り
 神さま、フー・マンチュー博士やモリアティー教授
 ドラキュラ伯爵をお助けください

 僕たちはオフィスビル排斥同盟
 神さま、小さなお店や
 チャイナ陶器や処女性をお守りください

 僕たちは摩天楼建設反対連盟
 神さま、チューダー朝の屋敷や骨董机
 ビリヤードをお守りください

  古いやり方を見直してごらん
  そこに僕らの新しい生き方があるから
  ほかに何か出来ることがあるかい?

 神よ!村の緑を守り給え


今回はちょっと英語のお勉強みたいになるので、中にはアレルギーを起こされる方もいらっしゃるんじゃないかと、ちと心配にはなりますが、それでもこの曲を読み解くカギは、ブリッジ部分で歌われる

 Preserving the old ways from being abused
 Protecting the new ways for me and for you

このわずか2つのセンテンスの訳し方にかかっていると思うので、どうぞ途中で投げ出さずにお付き合いください。


と、前置きをしておいて、ここからが本題になりますが、
僕はこれを長い間、「昔ながらの慣習を、新しいやり方から守るんだ」といったように解釈してきました。
つまり、古いのは「善」であって、これを踏みつけにする新しいのが「悪」という対比ですね。
実際、今まで目にしてきた資料などでも、そうした意味合いに訳されていることが多かったように記憶していますし、僕と同じように感じていた方も、意外と多いんじゃないかと思います。

と言うのも、やはりアルバムが制作された1968年という年は、ジミ・ヘンドリックスの『エレクトリック・レディ・ランド』や、クリームの『クリームの素晴らしき世界』、スモール・フェイセスの『オグデン』といった作品に象徴されるようなサイケデリック、あるいはディープ・パープルやレッド・ツェッペリンのデビューに見られるような、ハード・ロックの勃興期であって、どうしたって新しいものがもてはやされる時代。
そこに“偉大なるひねくれ者”たるレイ・デイヴィスが、一石を投じたんじゃないか、という思い込みですね。

だけど、歌詞の英文を素直に読むならば、この解釈はちょっと違うんじゃないか?
特に2行目の「Protecting the new ways for me and for you」という部分。
“新しいやり方から守る”のであるならば、「Protecting」と「the new ways」の間に、「from」ないしは「against」あたりが入るべきなんじゃないだろうか?
(もっとも、それだと韻律的におかしくなるので、それは行間に潜ませてあるのだ、と言われればそれまでですが)

何れにしても、あのレイ・デイヴィスが、ただ単に「古いものを守りましょう」とだけを言いたかったとは思えない。


そこで、僕は昨年の7月に「Village Green Preservation Societyと節電の夏」というエントリーを書きまして、この歌詞を新たに次のように解釈しました。

 古いしきたりを粗末にせずに
 新しい流儀も守り育てよう
 僕と君のために

これは「Preserving the old ways」
並びに「Protecting the new ways」なので、「古いものを保護する」と同時に「新しいものを守る」という意味。

あの記事を読み直していただければお分かりのように、まあ何しろ当時は震災から4ヶ月しか経っておらず、日本中が今以上に節電モード一色だったものですから、“すだれ”や“扇子”といった古いもの、これを大切に見直して、だけどエアコンのような電力を消費する新しいものも、「悪」と決めつけずに守って行こう。
そのように解釈して記事にして、その時には自分なりに満足はしていたんですが、それでも後々思い返してみると、何か腑に落ちないものがある。

それで更に考えて考えて…
いや、実はこの「Preservation全曲解題」のシリーズを書き始めるにあたっても、普通はオープニングの、このタイトルソングから書き始めるのが筋だとは思ったものの、その時点でもまだ良い解釈が思いつかなくて。
仕方がないので、こんなバラバラに曲を紹介していくという、変則的な形を取ったのも、実はそのせいだったりしたりして。


そんなこんなで色々と考えて、いっそのこと初心に帰って「new ways for me」を、ごく単純に訳してみたら、これが「僕のための新しい道」。

で、そこから一気にイメージが広がりまして、遂に訳出したのが上記の歌詞です。
直訳だとどうにもリズムが悪いので若干形を変えていますが、これをもう少し突っ込んだ表現にするならば
「今ではないがしろにされている、古い慣習や伝統、これを保護していこう。そうすることで、僕や君のための新しい道が拓けるから、それを大切に守っていこう」

僕が行き着きた最終的な結論はこういうことでありまして、これを別の言葉で表すならば
「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」となる。
つまり、レイ・デイヴィスの言う「Village Green Preservation Society」とは、すなわち「温故知新」ではなかっただろうか。


2012年の日本に目を転じれば、昨年の原発事故以来、脱原発・卒原発ということが盛んに言われているけれども、では原発の稼働を止めたとして、これに代わるエネルギー源をどうするかというと、これが「再生可能エネルギー」なのだという。
この再生可能エネルギーとはつまり、太陽光とか、水力、風力、地熱といったものであるわけだが、その実現性や是非はひとまず置くとして、これらというのは紛れもなく「昔からある」ものたちですよね。
ということは、古いやり方を見直してみたら、そこから新しい道が拓けるかも知れない、というVillage Greenの思想が、今まさに世界中に広がりつつあるってことじゃないか、という気がします。


1968年。
同時代のアーティストはもとより、世界中の多くの人々が、こぞって目先の革新に夢中になる中、遥か50年後を見据えて、逆に古いやり方に目を向けようと歌うミュージシャンがいた。
リリース当初『Village Green Preservation Society』が売れなかったというのは、だからレイ・デイヴィスが先を行き過ぎていたんでしょうね。
でも、当時最新のサージェント・ペパーズ・シンドロームとか、サイケデリックといったものに、今ではどうしても時代を感じてしまうのに対して、Village Greenは普遍的であり続けている。

別にファンだから言うわけじゃないけど、あの時代にこんな歌を作ったレイ・デイヴィスって、やっぱりスゲーなーって思います。


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| VillageGreen全曲解題 | 20:20 | comments(6) | trackbacks(0) | pookmark |
Village Green 全曲解題13「Animal Farm」
 この世界は広くて野蛮で半ば気違いじみてるよ
 動物たちがありのままに生きている場所に連れてってくれないかな
 牧羊犬が吠える
 僕らが“我が家”と呼んでいた朽ちかけた小屋のところへ
 あそこへ帰りたいなあ
 猫とか犬とか
 豚とか山羊に囲まれた
 あの動物農場
 僕の動物農場

 僕が枕を高くして寝ている間に
 可愛い娘が窓辺に遊びに来るんだ
 家から遠く離れていても
 ちっとも危なくなんかない
 それに怖がることもない
 彼女は僕のそばにいて
 空は大きくて
 日差しが燦々と降り注ぐ
 あの動物農場
 僕の動物農場

  ねえ君
  この世で生きてくのはつらい
  夢は叶うことなくしぼんでしまい
  君を参らせるかも知れない
  ひどい世の中だ

 動物たちがありのままに生きている場所に連れていくよ
 人間が人間らしく生きている場所
 僕らが“我が家”と呼んでいた朽ちかけた小屋の近くでの
 平穏な 本当に平穏な生活
 あそこへ帰りたいなあ
 猫とか犬とか
 豚とか山羊に囲まれた
 あの動物農場
 僕の動物農場
 あの動物農場
 僕の動物農場


Animal Farm(動物農場)というと、一般的にはジョージ・オーウェルの書いた寓話が思い浮かぶのではないでしょうか?

このお話、あらすじだけごく簡単に書きますと
人間に酷使されてみじめな暮らしをしていた動物たちが、ある日反乱をおこし、牧場主を追い出して、自分たちだけで農場の運営を始めます。二頭の豚を中心に、初めは平等思想で動いていた動物農場でしたが、やがて豚たちによる権力闘争が始まり、仲間への粛清が行われるようになっていきます。勝ち残った豚が、衛兵のような犬たちを従えて、ついには他の動物を支配するようになると、牧場の動物たちは、人間に代わる新たな独裁者を得ただけの、以前よりももっと過酷な生活に戻ってしまいました。

まあ、今回の本筋とは関係ないので、えらく端折っておりますが、これが物語のあらましです。
ロシア革命に材をとって、登場する動物たちもスターリンやレーニンをモデルにしているそうですが、でも、これはどう読んでも、キンクス版のAnimal Farmに繋がっているとは思えませんね。

ただし、権力欲に取りつかれたキャラクターによる人々の支配や、その権力をめぐる闘争といったシチュエーションは、レイによって後年書かれる「Preservation?〜?」の土台となっていそうなニュアンスもあり、これはこれで、いずれは押えておきたい小説と言えるのではないでしょうか。
(ちなみにピンク・フロイドの『Animals』も、この小説の影響のもとに書かれています)
ここに素晴らしい日本語訳があります。興味のある方はぜひ


さて、ジョージ・オーウェルの話はこの際置くとして、レイ・デイヴィスによる「動物農場」はどうでしょう。

このVillege Green関連の記事をアップするインターバルが異様に長いので、もうお忘れかとも思いますが、一応前回までのところで、Village Greenから出てきた主人公が、スターダムにのし上がり(Starstruck)、スターとしての狂騒の日々の中で昔の友に会いたくなり(Do You Remember Walter ?)、過去の写真を眺めて思い出に浸り(Picture Book)、ステージで何かの失敗をやらかして自信を喪失し(All Of My Friends Were There)、自分はもはや時代遅れだと自嘲する(Last of the Steam-Powered Trains)という、そういうところまでを考察してきました。

その流れで、この「Animal Farm」の歌詞を読むと、スターとしての日々にうんざり気味の主人公は、もはやロック界に未練はないらしく、今の生活はきっぱりと捨てて、動物たちが群れ遊ぶ自然豊かなVillage Greenに帰りたいと、そればかりを夢想しているようです。
それから、どうやら恋人も出来たらしく、そのことも彼を故郷に向かわせる一因になっているようです。


ところで、この「Animal Farm」、最終的に『Village Green Preservation Society』のアルバムに収録されるまでに、ちょっと変わった経緯を辿っています。
と言うのも、この曲は『Village Green〜』の前身となる『Four More Respected Gentlemen』には既に名前の見えるものの、それを発展させて68年10月にリリースされた『Village Green〜』の初回盤(12曲バージョン)には収録されていないのです。
その12曲バージョンに不満だったレイ・デイヴィスが、これを回収させて最終的にリリースした15曲バージョンで、この曲は復活するのですが、そこにはどんな意図があったのか?


12曲版からDays(感謝)とMr.Songbird(音楽の喜び)を削除して、新たに加えられた5曲を見ると、
 Last of the Steam-Powered Trains(自嘲)
 Big Sky(神の沈黙)
 Sitting By The Riverside(隠遁)
 All Of My Friends Were There(失敗)
そして、このAnimal Farmとなっています。

動物との暮らしを描いた明るい歌詞と、陽気なメロディーに騙されそうになるけれども、歌い出しやブリッジの部分をみれば分かる通り、この曲の主人公は、今現在の環境に不満を持っていて、そこから逃げ出すことを希求している。
つまりこの曲の主題は、じつは(逃避願望)となるわけで、するとこの追加の5曲に共通するのは、どちらかと言えば人生の陰の部分ということになりそうです。

だから、レイが最初の12曲版で描き切れていないと感じたのは、このVillage Greenの負の側面だったのかな?という気がします。

このAnimal Farmは、やや「陽」に寄りすぎた旧Village Greenを、陰陽中和させるために、レイが呼び戻した一曲だった、ということが言えるのではないでしょうか。


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| VillageGreen全曲解題 | 12:48 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
Village Green 全曲解題12「Last of the Steam-Powered Trains」
 古き良きシュシュポッポ列車みたいな
 俺は血と汗にまみれた隊列だ
 どこへ行くのか
 どうしてここに来たのかもわからない
 俺は時代遅れの蒸気機関車の生き残りだ

 俺は古き良き変節漢
 友達はみんな中流階級のショボクレだ
 でも俺は博物館に住んでるんだぜ
 結構なことじゃないか
 俺は時代遅れの蒸気機関車の生き残りだ

 古き良き汽車ポッポみたいに
 この世を吹き飛ばさんばかりに息を切らせて
 死ぬまで走り続けてやりたいね
 俺は時代遅れの蒸気機関車の生き残りだ

 古き良きシュシュポッポ列車みたいな
 俺は煤にまみれた隊列だ
 このまま平穏な日々が続いたなら
 俺はどうにかなっちまいそうだぜ
 俺は時代遅れの蒸気機関車の生き残りだ
 俺は時代遅れの蒸気機関車の生き残りだ


元ネタは、1956年にハウリン・ウルフが出した「Smokestack Lightning」というブルース・ナンバー。
もともと“Smokestack”というのは、「煙突」という意味なので、蒸気機関車の雰囲気を出すのにはうってつけだったということでしょうか。出だしのギターリフが、機関車のあの「ポッポー!」という汽笛の感じを再現しているようにも聞えます。





ちなみに、このハウリン・ウルフという人は、1960年代当時のロック・ミュージシャンの間で、非常に人気の高かったブルースマンで、ストーンズやクリーム、ジミ・ヘンドリックス、スティーヴ・ウィンウッドからドアーズ、ツェッペリンあたりに至るまで、実に幅広いアーティストに影響を及ぼした人物です。
この「Smokestack Lightning」だけでも、ヤードバーズ、マンフレッド・マン、アニマルズ、ザ・フー、グレートフル・デッドといった、錚々たるグループにカヴァーされていますし、1971年に自らロンドンに渡ってレコーディングした「London Howlin' Wolf Sessions」というアルバムには、クラプトンやビル・ワイマン、チャーリー・ワッツ等のイギリスのミュージシャンが、大挙して参加しています。

初期のカヴァー曲は別にして、普段はあまりブルースには縁のなさそうなキンクスですが、それでもそうしたムーブメントへの目配せは、決して怠ってはいなかったようです。


さて、邦題では「蒸気機関車の最後」と訳されたこの曲ですが、歌詞の内容から察するに、そうではなくて「最後の蒸気機関車」、あるいは「蒸気機関車の生き残り」とでも訳すのが正しいのではないでしょうか。
かつて村を走っていた蒸気機関車も、いつの間にか電気機関車にとって代わられ、本人的にはまだまだ走り足りないけれども、今では博物館に展示されて、のんびりとした余生を送っている…
といったようなイメージです。

ただし、このように歌詞を言葉通りに受け取って聴いているリスナーは、少数派かも知れません。と言うのも、これは時代遅れの蒸気機関車に見せかけて、実はレイ・デイヴィスが、当時の自分の置かれた状況を、暗喩的に歌いあげたものという解釈が一般的だからです。

今ではキンクスの生みだした最高傑作として評価の高い、この「Village Green Preservation Society」ですが、リリースされた当時の売り上げは、芳しいものではありませんでした。また、バンドの置かれていた状況も、決して良好なものではなかったのです。
このあたりの事情は、前回の「All Of My Friends Were There」のところにもちょっと書きましたが、当時のキンクスには、アメリカでのプロモーション禁止に始まって、曲の版権に絡んだマネージメントとの争い、ピート・クエイフの脱退、チャートからの脱落と、まるで良いこと無しの状態が続いていました。

とりわけヒット曲が出ないことを、当時のレイ・デイヴィスは気にかけていたようで、インタビューでも
「僕は全てを憎んだ。イギリスではヒットマシーンになるか、それとも消えうせるか、そのどちらかを選ばなければならなかったからだ」
というようなことを語っています。

試みに、アルバム制作(1968年10月)前後のイギリス・チャートを見てみると、

 MM NME
 # 2 # 1 Sunny Afternoon (1966年 6月)
 # 6 # 8 Dead End Street (1966年11月)
 # 2 # 2 Waterloo Sunset (1967年 5月)
 # 5 # 5 Autumn Almanac (1967年10月)
  / #28 Wonderboy (1968年 4月)
 #10 #14 Days (1968年 6月)
 #28 #28 Plastic Man (1969年 3月)
(MM=メロディーメーカー、NME=ニュー・ミュージカル・エクスプレス)

というような推移であって、徐々に徐々にヒットチャートから遠ざかって行くことへの恐怖が、レイ・デイヴィスを怯えさせていたであろうことは想像に難くありません。

改めて歌詞を読むと、『俺は時代遅れだ』とうそぶきつつも、その一方では『死ぬまで走り続けてやりたい』、『このまま平穏な日が続いたら、俺はどうにかなっちまいそうだ』と、決して負け犬にはなりたくない、レイの本心のようなものも観て取れて、まだまだ悟りの境地には達していない、彼の心の揺れがうかがえます。
イギリスの伝統に目を向けて、いかにも“キンクス然”とした世捨て人をきどっていても、若干24歳だった彼の心の中には、言いようのない“焦り”が渦巻いていたことでしょう。


さて、ここで話はハウリン・ウルフに戻ります。
キンクスが『Village Green Preservation Society』を作っている、ちょうどその頃、ウルフも一枚のアルバムに取りかかっていました。
「Spoonful」「Smokestack Lightning」「The Red Rooster」といったブルースの名曲を、当時流行のサイケデリック風にアレンジしてレコーディングし直した『The Howlin' Wolf Album』がそれです。
自分の名前を冠して、一見自信作にも見えるタイトルですが、彼自身は、そのように流行に媚びを売るような行為を、決して心良くは思っていませんでした。
レコーディングを拒んで3日間自宅に閉じこもり、リリースに際してはジャケットにデカデカと
“This is Howlin' Wolf' s new album. He didn't like It. He didn't like his electric guitar at first either.”
(これはハウリン・ウルフのニューアルバムである。彼はこれを嫌っている。彼は始めエレクトリック・ギターも嫌っていた)
とプリントして憚りませんでした。

このあたり、当時むしろ積極的にロックに接近して「Electric Mud」(1968)という同種のアルバムをリリースした、マディ・ウォ−ターズとは真逆の意思を感じます。

そこでふと思うのですが、この「Last of the Steam-Powered Trains」を執筆しているレイ・デイヴィスの脳裏に、ハウリン・ウルフのこのような頑固な精神が、ひょっとしたらチラついていたのではなかったでしょうか?
“俺は時代遅れのブルース・シンガーの生き残りだが、流行になんて乗る気もないね”

若い世代のロック・ミュージシャンから慕われながら、他のブルースマンのように自分からそこに接近していくことなく、シカゴで黒人相手にひたすらブルースを歌い続けた気骨の人に、レイ・デイヴィスは自分自身の境遇を重ね合わせたのかも知れない。
仮にそうであるならば、レイは蒸気機関車の雰囲気を出すために、たまたまハウリン・ウルフの楽曲を拝借したのではなくて、逆に初めから時代におもねらないウルフのような頑固な姿勢を歌うつもりで「Smokestack Lightning」を引用し、次いで蒸気機関車のキャラクターを創出したのではないか。

曲の中の蒸気機関車が、“俺は時代遅れだ”と言いながら、そのことになぜか誇りを持っていそうな訳も、そう考えれば何となく得心がいくような気もするのですが。


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| VillageGreen全曲解題 | 20:09 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
Village Green 全曲解題11「All Of My Friends Were There」
 大いなる一日
 私の人生における最も重大な一日
 それは私のキャリアにおける頂点とも言える一日だった
 しかし私の気持ちは沈んでいた
 それに私はビールを飲み過ぎてしまっていたので
 マネージャーは私に出て行くべきではないと言った

 私は歩いてステージに上がり、そして話し始めた
 私が2年間を棒に振ることになった最初の夜
 私が群衆に向けて話をすると、彼らは私をあざけりはじめた

 私は誰にもそこにいて欲しくないと思った
 まさにその時
 友人全員がそこにいたのだ
 友達だけでなく、彼らの親友さえもがそこにいた
 友人全員がそこに立って私を凝視していた
 何ということだ、彼らの友達までそこにいる必要はなかったのに
 私を笑い物にするような人は、いずれにせよ友人ではないのだが
 友人全員がそこに立って私を凝視していた

 時が過ぎ、私は変装してあたりを歩き回るようになっていた
 口髭を生やして髪を分け、私は何も気にしていない素振りをしたが
 その実、当惑と絶望をこの胸の内に秘めていた

 その日がやって来た
 何杯かのジンの助けを借りて
 私は神経を逆立てながら再びステージに立った
 演目を終えても、誰も不満を述べることはなかった
 おお神よ、私は元の私に戻ることができたのだ

 私はかつて楽しい日々を過ごしたことのある
 馴染みのカフェへと向かった
 すると、私の友人全員がそこにいた
 気の置けない友人たちだ
 何ということだ、友人全員がそこにいたのである
 友達だけでなく、彼らの親友さえもがそこにいた
 私の友人全員がそこにいた
 今では私は何も気にすることなど無いのだ


不思議なことに、と言いますか、色々な本や資料をあたっても、この曲を取りあげた解説というのは、まず見つけることが出来ません。
「Village Green」の他の各曲については、それぞれに何らかのコメントや記事が書かれているのに、この曲だけは何故か黙殺状態なのです。
そこで僕としては、ひょっとしたらこれは、キンクスの暗黒史を歌った曲じゃないかと訝しんでみるわけです。

1965年、初めてのアメリカ・ツアーを行っていたキンクスは、当地の音楽家協会から、向こう4年間のプロモーション禁止、つまり実質上のアメリカからの締め出し処分を言い渡されてしまいます。

これは、理由は色々と言われてますけど、ひとつにはキンクスの素行が非常に悪かった。
モノの本によれば、あるテレビ番組の収録直前、共演するグループの中に黒人ドラマーがいるからという、それだけの理由で出演をドタキャンしたとか、レイがテレビ局のスタッフの皮肉な言葉にキレて、殴り合いのけんかをしたとか、そういう悪ふざけや下らないイザコザを、アメリカで散々やってしまった。
彼らのそうした振る舞いが「プロにあるまじき行為」として糾弾されたというもの。

それから理由のもうひとつは、イギリスから次々とやって来る、所謂「ブリティッシュ・インベージョン」に対する、アメリカからの報復の犠牲になったというもの。
レイの自伝的な「X-RAY」を読むと、このツアー中にビーチ・ボーイズと一緒になった時、彼らから敵意のある視線を送られたエピソードなどが載っていますけれども、この当時のアメリカの音楽関係者の間には、イギリスからの侵略者に対する敵愾心のような感情が、相当に充満していたようです。
そうした悪感情が、ブリティッシュ・バンドのなかでも素行の悪かったキンクスに向けて一斉にぶつけられた結果、この追放劇となってしまった。

レイ・デイヴィスは、この件に関してキンクスのBOXセット「Picture Book」の解説の中で、「マリファナやクスリで逮捕されるミュージシャンも、ホテルの部屋をめちゃくちゃにするバンドもあった。キンクスはそんな連中のツケも全部払わされたみたいだった」と証言していて、自分たちはあくまでも犠牲者だと言いたげですが、しかし、その理由はともかくとして、キンクスは1965年の中頃から1969年頃までの間、アメリカでの活動が禁じられていました。

それで、『All Of My Friends Were There』の歌詞を読んで真っ先に思いつくのは、これはこのアメリカからの締め出しについて歌った曲なんじゃないか、ということ。

つまり、キンクスは自分たちの将来にとって最も大事なアメリカ・ツアーを、その粗暴な振る舞いによって台無しにしてしまった。
そして、アメリカに拒絶された彼らは、他のブリティッシュ・バンドが次々にアメリカのチャートを賑わして、意気揚々と凱旋する姿を横目に見ながら、イギリス国内で「何も気にしていない素振りをしながらも、当惑と絶望をこの胸の内に秘めて」活動せざるを得なくなった、というわけです。

仮にそうであるならば、ここに歌われる「友人全員」というのは、結局レイ達が帰り着いた「イギリス」のメタファーということにでもなるのでしょうか?
アメリカ進出は失敗したけれど、出戻ったイギリスでは『Sunny Afternoon』や『Waterloo Sunset』などのヒットを出すことができて、温かく迎えられました、みたいな内容と取れなくもない。
(すると、自分を笑い物にした「友達の友達」はアメリカということになるのかな?)

ただし、この解釈には弱点もあります。なぜならば、レイ・デイヴィス自身が、当時のアメリカ進出の失敗を、アメリカ側からの陰謀のせいだと主張し続けているからです。
件の「Picture Book」にも、「ありもしなかった事件や、バンドに関わりのない出来事に対する謝罪の意を表す書類を見せられて、そこに署名をした途端にプロモーション禁止の処分が解けた」というような記述がありますから、自分たちはアメリカで何ら悪事を働いていないというのが、一貫したレイのスタンスのようです。
だから、そのように、アメリカの陰謀と主張するのであれば、この曲のように「ステージでしくじった」=「自分たちが悪い」という歌詞など、当時のレイが書くはずはありません。(ハッキリと「しくじった」と歌っていないにしても、ニュアンス的にはそのように受け取れます)

結局これだ!という結論は出ないままなのですが、ただ、まあそのようなアメリカからの理不尽な扱いや、版権の問題での裁判などといった災いが、この当時のレイの身にまとめて降りかかったのは事実であって、そんなこんなで、一時的にせよミュージシャン生活に嫌気がさしたという彼の弱気な心情が、この曲の背後に隠されているのは間違いのないところでしょう。

以前から書いている、僕なりの解釈によるアルバムのストーリーに則って話を進めれば、都会に出てミュージシャンとして成功した主人公が、ステージでの失敗や観客からのブーイングにあって、いよいよ友達のいる「ヴィレッジ・グリーン」に帰りたくなってきた、という局面を表す曲ということになるのでしょうか?
このあと主人公は、音楽活動が本格的に厭になって、深い自己嫌悪に陥るのですが、それは次回の更新で。



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| VillageGreen全曲解題 | 21:44 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
Village Green 全曲解題10「People Take Pictures of Each Other」
 みんなが夏の写真を撮ってるよ
 誰かがそれを忘れてしまった時に
 そんな夏が確かにあったことを証明するために

 父親たちは母親たちを写してる
 姉妹たちは兄弟たちを写してる
 お互いの愛情を示し合ってるんだ

 写せっこないのは
 僕らが若くて自由だった頃に
 君が奪っていった僕の愛情
 色んな物が昔どうだったかなんて
 これ以上それを僕に見せないでくれるかな

 みんなが互いの写真を撮りあってるよ
 本当にここにいるんだってことを証明するため
 本当にここにいるんだってことを証明するためにさ

 みんなが互いの写真を撮りあってるよ
 誰かが他の誰かにとって大切だった瞬間が
 永遠に残されるんだ

 みんなが夏の写真を撮ってるよ
 誰かがそれを忘れてしまった時に
 そんな夏が確かにあったことを証明するために

 みんなが互いの写真を撮りあってるよ
 誰かが他の誰かにとって大切だった瞬間が
 永遠に残されるんだ

 古い樫のそばに座って親指をしゃぶる
 僕が3歳だった頃の写真
 ああ、あの頃のことを
 僕がどれほど愛おしく思っていることか
 頼むからこれ以上僕に見せないでくれるかな


レイ・デイヴィスは、この曲の着想を、自身が参列した結婚式から得たといいます。
式が終わった屋外で、新郎がやにわにカメラを取り出して、新婦の写真を撮り出すと、今度は新婦が新郎の写真を撮り始め、更には、新郎新婦の父母や列席者までもがお互いの写真を撮り始めるといった、まさにこの曲そのままの光景が、実際に繰り広げられたのだそうです。

そんな知識を頭に入れて聴けば、まさに結婚式後のパーティーで、ポルカ風(?)の弾むような曲調に乗せて、人々が楽しげにお互いを写し合う、ハッピーで可愛い場面が浮んできます。

しかし、そこは冷静な観察者たるレイ先生のこと、当然ながらハッピーなままでは終わらないんですね。
結局彼は、この曲の主題を、そうした幸せなシーンではなくて、ブリッジとなる部分に持ってきました。
僕は前回の記事で、レイ・デイヴィスは写真否定派のようだと書きましたが、彼のその考えは、この曲の途中に挿入される「これ以上僕に見せないでくれるかな」の一言に表れていると思います。
徹底した個人主義者である彼は、人々が写真を撮り合う風景を傍観しながらも、決して自分自身をその輪の中には入れないで欲しいと願います。
なぜなら、彼は写真というものを全く信用していないからです。

彼の写真に対する不信感は、その自伝的小説『X-RAY』の中のセリフに現れています。

「写真?ハッピー・スナップ?何の意味もない。カメラは真実を伝えると言われるがうわべだけだ。機械が解釈した現実を見るより、自分の頭の中にあるイメージを伝える方が良い。また古いナヴァホ理論だが、写真は魂を抜き去る。わたしは子供の頃から写真を撮られるのが嫌いだった。写真を撮られるのが普通のこの世界に入って私がどう感じたかわかるだろう。だから写真では実に情けない顔をしているんだ。『写し合った写真』というわたしの曲を聞いたことがあるか?わたしが写真のイメージの世界に対してどう感じているかを歌った歌だ」

「写真はノスタルジーを呼ぶだけだ。わたしは人々の姿をそのまま思い出したい。写真はその人が年齢を重ねたことをさらけだす。ところが思い出の中では人は年をとらない。だめだ、カメラは残酷だ」

「カメラは嘘はつかないかもしれないが、正直とは限らない。ほんの小さなかけらを狭い視野の中で見せるだけだ。何十秒分の一かの小さな人生の断片だ。両義的であるべき事柄を絶対的にしてしまい、個人的な解釈の余地がない」

うーむ、若干矛盾を感じる部分もありますが、言っていることは分かります。
思い出というのは、人の内面にのみ留まるものであって、写真に封じ込められた過去の場面は、それは思い出とは言わない。なぜならば、写真というものは機械が解釈した現実の一断面に過ぎず、それが必ずしも真実を伝えているとは限らないから、ということですね。

写真は現実を写すけれども、人の内部の感情や思想までもは写せない。人の気持ちは刻々と移り変わって行くのに、写真というものはそうした時の流れや、見る者のいま現在の感情をすべて無視して、過去の姿を無理やりに、そして機械的に突き付けてくる。
だからこそ、写真に対するそうした諸々の葛藤を表現して「これ以上それを僕に見せないでくれるかな」となるのでしょう。

ただ、彼はそのように写真に対して不信感を露わにする一方で、絵画に対しては信頼を寄せる発言をします。
いわく「偉大な絵描きは真実の見方を知っていて、好むと好まざるとにかかわらずカンヴァスにそれを描く。アーティストは内面の経験をすべて描くのだ。カメラは表面をなぞるだけだが、アーティストはその内部の思想を描くのだ」
彼の言葉をすべて鵜呑みにするつもりはありませんし、様々に異論も出る考え方だとは思いますが、しかし僕は恐らくこの言葉は、レイ・デイヴィスの表現者としての哲学なのだろうと考えます。
もちろん彼は絵描きではありませんが、この物事の表面だけでなく内面までも正しく描き出そうという手法は、彼がキンクスでずっと積み重ねてきた表現のやり方だからです。

若干話がそれましたが、それではそれらのことを踏まえて、「Village Green Preservation Society」というアルバムの中での、この曲の立ち位置を考えてみましょう。
この曲は、アルバムに収録された他の曲と同じように、村で起こったある一日の断面を歌っているように見えて、実はアルバムのテーマに直結したひとつの思想を歌っているものと思われます。
すなわち、このアルバムを通してキンクスは“Village Green”をPreservation(保存)したいと願っている。けれども、カメラに映る風景のような、表面的なものだけを守るのでは何にもならない。やはり物事の本質となる何ものかを守って行かなければ駄目なのだ。
習慣や伝統や人々の想いといったものには形がなくて、写真に残すことなどはもちろん不可能だけれども、僕たちが第一に守るべきは、まさに形のないそれらであろう。
つまりキンクスの守りたい“Village Green”とは、人々の想念や感情、思いやりや記憶、あるいは習俗や信仰、儀礼といった、形のない(=写真になど映らない)ものの中にこそ存在するのである。
僕たちはそれらを守るのだ。

いやまあ、レイ・デイヴィスがこの曲に、そこまでの意味を込めていたかどうかは定かでありませんが、しかし歴史に残るコンセプト・アルバムのエンディングとして選ばれた曲なのだから、それくらい言外の意味のあるほうが、むしろ当然だろうと考えます。


さてさてところで、前回「Picture Book」のところで保留にしておいた、ひとつの疑問が残っています。
それは、曲の中で歌われている写真は、どうして主人公が子供の頃のものばかりであるのかという点でした。
具体的には「昔々、君が幸せな赤ちゃんだった頃のものだよ」云々といったくだりですね。
それを念頭に「People Take Pictures of Each Other」の歌詞を見ると、またしても『僕が3歳だった頃の写真、あの頃のことを僕がどんなに愛おしく思っていることか』とあります。

なぜ主人公は赤ちゃんだった頃が幸せだったのでしょうか?

それは、もしもこのアルバムの主人公が、これまでに仮定してきたようにレイ・デイヴィスの分身であるとするならば、答えは恐らく「デイヴ・デイヴィス」にあると思います。
レイという人は、女ばかり5人姉妹の家に生まれた、初めての男の子です。
だから弟が生まれる3歳の頃までは、それはそれは大切に育てられたのです。
そんなレイ・デイヴィスの、最も幸せな時代が崩れ去るのが1947年2月3日、つまりデイヴ・デイヴィスの誕生日。
それはレイが3歳になる直前のことでした。

デイヴが生まれる前までは僕は幸せだったのに、というレイの現実のトラウマが、これらの曲のモチーフとなっていることは想像に難くありません。
デイヴィス兄弟の確執というのは、その発端が幼児期にまで遡れるほど、根の深いものなのですから。


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| VillageGreen全曲解題 | 19:53 | comments(10) | trackbacks(0) | pookmark |
Village Green 全曲解題9「Picture Book」


 年とった自分自身を想像してごらん
 暖炉のそばに座ってあれこれ思いを巡らすんだ
 写真帳
 ずっと昔にパパが撮った君のママの写真
 写真帳
 ずっと昔にお互いの愛を示すために撮りあった写真
 ピクチャーブック 写真帳

 誕生日のおめかしをして
 暑い午後の陽ざしの中に座ってる君の写真
 写真帳
 君のママと君のパパ
 それに友達と一緒にへべれけになっている
 太っちょのチャーリー伯父さん
 写真帳
 8月の休日、明るいサウスサイドのペンションの前で撮った
 写真帳
 昔々、君が幸せな赤ちゃんだった頃のものだよ
 ピクチャーブック 写真帳

 写真帳 写真帳
 スクービィ・ドゥビィ・ドゥ
 写真帳 写真帳
 スクービィ・ドゥビィ・ドゥ

 写真帳
 ずっと昔にパパが撮った君のママの写真
 ずっと昔
 ずっと昔
 ずっと昔


このことは以前にも書きましたが、「Village Green Preservation Society」アルバムには、互いに対になる曲がいくつか含まれています。
すなわち「Village Green Preservation Society」と「Village Green」はタイトル繋がり、「Phenomenal Cat」と「Wicked Annabella」は童話繋がり、それに「Monica」と「Polly」(もっともこれは最終的にアルバムからは外されたが)は強い女性(?)繋がり、といった具合です。

加えてこの「Picture Book」。
これは同じ“写真”繋がりで「People Take Pictures of Each Other」とのペアと考えて間違いないでしょう。
ただし、これは次回に書く予定の「People Take 〜」の方で検証しますけど、ふたつを並べてみてみると、同じく写真のことを歌いながらも、この2曲ではその捉え方がずいぶん異なっているのが分かります。

単純に分けると、写真というものを、どちらかと言えば肯定的に歌うのが「Picture Book」。否定的(と書くとちょっと言葉がきついけど)に歌うのが「People Take 〜」。
そして、色々な資料から察するに、レイ・デイヴィスという人は、どうも“写真否定派”に属しているようなのです。

それじゃあ、なぜ彼は写真を否定するのか。
これについては、次回詳しく触れます。

それから、この曲の中でもう一点、注目しておきたいのは、歌詞の中で歌われている写真は、主人公が子供の頃の、遠い昔のものばかりであるという部分でしょうか。
歌詞に出て来る「君」という人物(=レイ・デイヴィス?)は、遠い昔の赤ちゃんだった頃は幸せだった。
ということは、いまは幸せじゃないのでしょうか。だとすれば、一体それはなぜでしょう?
このことについても、次回触れます。


どうも今回は、次の記事のための前ふりだけで終わりそうですが、ここでちょこっとだけ、以前から書いている、僕の勝手なストーリーに照らして、この曲の立ち位地を検討しておきますと…

Village Greenから出てきた主人公は、ロック・ミュージシャンとして成功を収めました。しかし、スターとしての狂騒の日々に疲れてしまい、そのような毎日にうんざりもしています。
そんな時、ふと思い出したのがウォルターという旧友の名前。
そして、そのことがきっかけとなって、昔日の記憶が愛おしくなり、家から持ち出していた古い写真を眺めては、故郷への思いを強くしていく。
…といった感じでしょうか。

…どうもこの曲と、「People Take 〜」では、“写真”という存在そのものに歌詞の重点が置かれているせいか、ストーリーに当てはめるのは難しいです。

…っていうか、ほかの曲も全部難しいですけどね。


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| VillageGreen全曲解題 | 22:05 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
Village Green 全曲解題8「Do You Remember Walter ?」
 ウォルター、世界がまだ若かった頃のことを覚えてるかい?
 女の子がみんな君の名前を知ってた頃のことさ
 ウォルター、僕らの幼い世界が変わってしまったのは残念だね
 覚えてるかい、ウォルター
 雷雨の中でクリケットに興じたことを
 覚えてるかい、ウォルター
 君んちの庭木戸に隠れて煙草を吸ったことを
 そう、ウォルターは僕の相棒だった
 なのに、ウォルター
 昔っからの僕の友達
 君は今どこにいるんだい?

 ウォルターは名の通った奴だった
 ウォルター、僕らの幼い世界が変わってしまったのは残念だね
 覚えてるかい、ウォルター
 世の中と戦って自由を得るんだと言ったことを
 お金をためて船を買い、海に出るんだと夢見たことを
 でも、それは叶わなかったね
 僕が知っているのは、あの頃の君だけ
 今の君はどうしているか、教えてくれないかな?

 ウォルター、君は遠いあの頃から僕を呼ぶ“こだま”なんだ
 僕に会っても、名前すら出てこないんじゃないのかい
 君は太って、結婚もして
 いつも8時半には寝床に入っていたりするのかな
 きっと昔のことを話しても、君は退屈するんだろうな
 そして何も言ってはくれないと思う
 そう、人は変わってしまうからね
 だけど、思い出は残るものなんだよ


前回(Starstruck)のお話の続き。
主人公はいま、ロック・ミュージシャンとして、狂乱とも言える日々の中に身を置いています。

ナンバーワン・ヒットを出してから生活は一変。グルーピーに追いかけまわされ、ツアーの連続で、明日の今頃に自分がどこにいるのかも分からない毎日。その一方で、音楽産業の裏側が見え始めて、自分の曲さえ聞いたことのないマネージメントが、莫大な金を受け取る理不尽さに疑問も抱き始めています。

そんな時、ふと思い出した旧友の名前。
彼の名はウォルター。

さて、ではそのウォルターとは、一体何者なのでしょうか?

キンクスの伝記本「ひねくれ者たちの肖像」を書いたジョニー・ローガンは、その同じ本の中で、ウォルターとはすなわち『大人になったデヴィッド・ワッツである』という認識を披露していました。
僕はこれは、けだし卓見であると思います。

歌詞の中の『女の子たちはみんな彼の名前を知っていた』という表現を見てもらえば想像のつく通り、ウォルターは子供の世界の名士であって、仲間内の人気者であったはず。
学校で一番の成績で、チームのキャプテン。
だけどムチャクチャ明るくて良い奴。
近所の女の子はみんな彼をデートに誘おうと狙っているけどうまくいかない。
そんな少年であった可能性は非常に高い。

ということは、すなわちウォルターはデヴィッド・ワッツその人。或いはその人とまではいかないまでも、デヴィッド・ワッツ的なキャラクターの持ち主であったことは、ほぼ間違いのないところでしょう。



 僕は鈍くて単細胞
 水とシャンパンの区別もつかないし
 女王陛下に会ったこともない
 あいつが持ってるすべてが欲しいよ
 デヴィッド・ワッツみたいになりたいなあ

 頭を枕に乗せて横になり
 デヴィッド・ワッツみたいに戦う姿を夢に見るんだ
 チームを勝利に導いて
 試験も全部パスする夢をさ

 デヴィッド・ワッツみたいになりたいなあ
 デヴィッド・ワッツみたいになりたいなあ

 あいつの成績は学校で一番
 あいつはチームのキャプテンで
 陽気で自由奔放に振る舞っている
 あいつのお金が僕のものだったらいいのになあ
 デヴィッド・ワッツみたいになりたいなあ

 近所の娘たちは
 みんなデヴィッドとデートしたくて
 ベストをつくすけど上手くいかない
 だってあいつは純粋でお育ちのいい坊ちゃんだから

 あんな風になれたらいいな
 あんな風になれたらいいな


すると、彼に憧れていた『水とシャンパンの区別もつかない』ダサい少年こそが、この曲の主人公にして、「Village Green 〜」アルバムの語り手である、という憶測も十分に成り立つことになります。
もちろん、そんな記述はどこにもないけれども、そのように考えて行くことによって、レイ・デイヴィスの世界観というものが、また一気に広がっていくではありませんか。


それにしても、この「Do You Remember Walter ?」で歌われる、この何とも言えない喪失感はどうでしょう。
軽快なメロディーで歌われているため、曲として聴いている限りでは、それ程の重苦しさを感じることはないものの、改めて歌詞だけを読んでみると、切なさの度合いは大きさを増します。
僕はしかし、多くの人がこの曲に感情移入出来てしまうのは、まさにこの「喪失感」によるものだろうと思っています。
というのは、やはりそれは、失われた過去に対する想いというものは、大人になってしまった人々すべてに共通する感情であるからです。
大人になって、関係が希薄になってしまった友人への想いを、誰にでもひとつやふたつはありそうなエピソードを交えて描き出す。
アルバム中の「Village Green」でも試みられた、過去と現在を鮮明に対比させて、リスナーの郷愁を呼び覚ますテクニック。僕はレイ・デイヴィスのこうした手法に、彼のストーリーテラーとしての巧みさを強く感じます。


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| VillageGreen全曲解題 | 19:45 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
Village Green 全曲解題7「Starstruck」
 Baby 自分が何を言ってるのか分かってないね
 君は都会の煌びやかさにやられちまって
 頭が変になってるんだ
 世界の頂点にでも立ったつもりなのかい

 だって君は追っかけ、スターの追っかけ
 明りに吸い寄せられて
 反省もない
 君は僕の追っかけだ

 Baby 気が触れたみたいに走り回ってるね
 パーティーに出かけては夜通し踊って
 もう飲めないというまで飲んで
 しまいには立っていられなくなるんだ

 だって君は追っかけ、スターの追っかけ
 明りに吸い寄せられて
 反省もない
 君は僕の追っかけだ

 Baby 気をつけないと破滅するよ
 一度ワインとシャンパンの日々に溺れたなら
 きっと君は狂っちまうよ
 世間はそんなに甘くないんだ

 だって君は追っかけ、スターの追っかけ
 明りに吸い寄せられて
 反省もない
 君は僕の追っかけだ
 自分でもそう思わない?
 君は僕の追っかけだ
 これからだってそうなんだろうな
 君は僕の追っかけだ
 君は僕の追っかけだ


まあ、色々なご意見はおありでしょうが、これまで何回も書いた通り、僕はこの「The Village Green Preservation Society」の語り手と、「Lola Versus Powerman and the Moneygoround, Part One」の主人公は同一人物と考えています。

ふたりは同じように野心を持って故郷を飛び出し、一度は名声を得るものの、やがてその夢見ていた世界が虚しいもののように思い始めて、人生で本当に大切なものに気づいて、スターダムから去って行きます(ただし「Village Green 〜」のほうは、多分に僕の希望的憶測が入ってますが…)。

僕のイメージするストーリーによれば、この「The Village Green Preservation Society」では、これまでに取り上げた『Village Green』『Johnny Thunder』『Phenomenal Cat』『Big Sky』『Wicked Annabella』『Monica』
までが、主人公の少年時代、彼の村での生活を描いたもの。
そしてこの『Starstruck』からが、彼のロック・スター時代ということになります。
根拠は非常に薄弱なのですが、ただ「Lola versus Powerman 〜」の主役もロック・スターだったわけだし、この『Starstruck』で歌われる内容って、いかにもそれらしくないですか?

仮に僕の説が正しいとすれば、この曲の主人公は今、『Top of the Pops』でその世界の頂点にまで上り詰め、『The Moneygoround』でロック界の裏側に疑問を抱き、『This Time Tomorrow』で世界中をツアーして回るという、まさにロック・スターとしての狂騒の最中にいるはずです。
そうした、やや有頂天になった主人公が、彼を追いかけまわす、所謂“追っかけ”(昔の言葉で言うとグルーピー)に対して、「いい加減に目を覚ませ」と説教する、そんな内容でしょうか?

キンクスって、あまりスターぶらないバンドであって、歌の目線はいつも一般庶民の方を見ているから、こういう自らのロック・スターとしての立場から、他人にメッセージを送る曲というのは、これは非常に珍しいですね。


ただし、この主人公がロック・ミュージシャンという設定は、「Lola Versus Powerman 〜」との関連性から来る、僕の勝手な妄想に過ぎません。
だから、真相は実は真逆ということだってあり得るわけです。

というのはつまり、Village Green村から出てきた田舎青年が、スターを夢見るあまり、スターの追っかけに身をやつすという。
そして、そんな主人公を、当のスターがバカにするという、そういう理解もありでしょうね。

いや、それだとあまりにも切ない歌になりますが、でもこっちの方が、いかにもキンクスっぽい気もします。



ストーンズに置き換えるとこんな感じでしょうか?


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| VillageGreen全曲解題 | 20:53 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
Village Green 全曲解題6「Monica」
 モニカは真夜中に
 街灯の下に立つんだ
 男たちは誰もが
 彼女の愛は買えるものと思ってるけど
 モニカからの優しい愛は
 お金なんかじゃ買えないんだ

 夜明けから月の輝く夜まで
 モニカはあらゆる手管を知っている
 求婚なんてしちゃダメだ
 だってモニカはすべてお見通しなのさ
 鼻で笑っておバカさんねって言われるのがオチさ
 
 僕は死んじゃうかも
 モニカがいなくなったら
 僕はきっと死んじゃう
 ああ、いとしのモニカ
 みんなはモノにしようとする
 モノにしようとはできるけど
 モニカの愛は買えないんだ

 君が太陽を選ぶなら
 僕は夜の影を取ろう
 だってモニカが輝くのは夜だから
 彼女はイケナイことをして
 その正しさを証明して見せるんだ
 
 僕は死んじゃうかも
 モニカがいなくなったら
 僕はきっと死んじゃう
 ああ、いとしのモニカ
 みんなはモノにしようとする
 モノにしようとはできるけど
 モニカの愛は買えないんだ

 夜明けから月の輝く夜まで
 モニカはあらゆる手管を知っている
 求婚なんてしちゃダメだ
 だってモニカはすべてお見通しなのさ
 鼻で笑っておバカさんねって言われるのがオチさ
 ああ、モニカ


歌詞を読んで想像するに、このモニカという女性は、娼婦に違いない。

…という一般的な見解に乗っかって、まずは話を進めます。

モニカは夜な夜な街角に出没する娼婦。そしてVillege Greenから出てきたばかりの純朴な青年は、彼女に本気の恋をしてしまう。
その顛末を歌ったのがこの曲だという解釈です。

僕はしばらく前のエントリーで、この青年というのは「Lola vs Powerman〜」の主人公と同一人物に違いない、ということを書きましたけれども、するとこのモニカという女性は、「Lola vs 〜」でいうところの“ローラ”みたいな存在でしょうか?
こちらは娼婦、あちらはニューハーフという違いはあるものの、いずれもうぶな青年が、都会に出て初めて恋する相手としては、中々ドラマチックなものがあります。

「モニカ」≒「ローラ」説。これが第一の仮説です。


ところでこの「Village Green Preservation Society」というアルバムを見ていると、全体の中に互いに対をなす曲が、いくつか含まれていることにお気づきかと思います。
たとえば「Picture Book」と「People Take Pictures of Each Other」は共に写真でつながっているし、「Phenomenal Cat」と「Wicked Annabella」は、童話的な作風が共通している、といった具合です。
すると、この「Monica」にも、ひょっとしたら対になる曲があるのかも知れない。

そこで思いついたのが、このアルバムの前身となる「Four More Respected Gentlemen」に収録が予定され、後に「Wonderboy」とのカップリングでシングル・カットされた「Polly」という一曲です。

 ポリーはママの言うことを聞こうとしなかった
 ポリーはパパの言うことを聞こうとしなかった
 彼女はスィングする街の真っ只中に出たかった
 今では街中に知らない場所なんかない
 
 ポリー 可愛いポリアンナ
 ポリー 可愛いポリアンナ
 可愛いポリー・ガーター
 家を飛び出すべきじゃなかったのに
 
 可愛いポリーは最高にいかした服を着てる
 めちゃくちゃ愛くるしいってみんな言う
 50万人もの人が言うんだよ
 でも彼女は家にいるべきだったのになあ
 
 ポリーはママに手紙を書いた
 ポリーはパパを混乱させた
 ママは親子の絆が失われていないことが誇らしかった
 彼女のベイビーが帰って来てくれてハッピーなんだ
 
 可愛いポリーは
 人生はゲームみたいって学んだんだ
 絆を壊さなきゃいけなかったことを悲しんだけど
 ママは知っているよ
 だってママも同じだったからね
 彼女のベイビーが帰って来てくれてハッピーなんだ
 
 ポリー 可愛いポリアンナ
 ポリー 可愛いポリアンナ
 可愛いポリー・ガーター
 家を飛び出すべきじゃなかったのにね


ここでは特に、この女の子の名前に注目していただきたいと思います。
歌詞を読むと、ポリーのフルネームは“ポリー・ガーター”だとあります。

ポリー・ガーター(Polly Garter)。
面白いことに、これはディラン・トーマスの「Under Milkwood(ミルクの森で)」に登場する、ある人物と同じ名前なのです。

…というわけで、ここからは原文の斜め読みによるにわか知識なので、間違っていたらゴメンなさいなのですけれども、詩劇の中で描かれるポリーは、奔放な男性遍歴を繰り返す、若き未亡人ということになっています。
彼女の口からは、過去に関係を持った何人もの男性の名前が出てきますし、今でも村の住人であるMr. Waldoと、人目を忍んで会ったりしていて、村の奥様方に格好のゴシップの種を提供しています。
そうした意味では、ある種の“娼婦”的な女性だと言えるでしょう。
この辺り、非常にモニカのイメージに近い感じが僕はしました。

しかし、劇中で歌われる彼女自身の言葉を聞けば、その派手な男関係が、単に彼女自身の欲望に起因したものではないことが分かります。

 あたしはトムという名の男を愛したわ
 熊みたいに強くて とっても背が高かった
 あたしはディックという名の男を愛したわ
 樽みたいに大きくて がっしりと逞しかった
 あたしはハリーという名の男を愛したわ
 6フィートも背があって チェリーみたいに優しかった
 だけど昼も夜もなく愛したのは
 たった一人の男だけ
 彼の名前はリトル・ウィリー・ウィー
 地中深くに眠ってる

 ああ トムとディックそれにハリー
 三人とも素敵な人だった
 二度とあんな風に人を愛する事もないでしょう
 でも リトル・ウィリー・ウィーは私を受け入れてくれたのよ
 リトル・ウィリー・ウィーこそが私の人だった

 いろんな教区から男たちがやって来て
 私を追いかけて野原で転げまわるわ
 丘から来たジョニーや船乗りジャック
 そんな男たちを愛する時はいつでも
 トムやディックやハリーみたいに
 私を喜ばせてくれるかを考えてしまうの
 そして彼らの傍にいて私がいちばん思うのは
 溺れて死んだリトル・ウィリー・ウィーのこと

 ああ トムとディックそれにハリー
 三人とも素敵な人だった
 二度とあんな風に人を愛する事もないでしょう
 でも リトル・ウィリー・ウィーは私を受け入れてくれたのよ
 リトル・ウィリー・ウィーゼルこそが 私の最愛の人だった


つまり、彼女はかつて愛した、ただ一人の男性(夫)に先立たれ、その悲しみを忘れるために、様々な男性と関係を重ねているというのです。
そして、このポリー・ガーターの独白を見る限り、彼女の立ち位置や性格は、キンクス版「ポリー」よりも、むしろ「モニカ」のそれに酷似している気がするのですが、いかがでしょうか?
傍から見れば、娼婦のように、いかにも奔放に振る舞っているようではあっても、その本質は、かつて愛した亡夫をいつまでも忘れられずにいる一途な女性。それがポリー・ガーターであり、恐らくそれはモニカでもあるのだろうと僕は思います。
だからこそ、色々な男が言い寄ろうとも、「モニカからの優しい愛は、お金なんかじゃ買えない」のです。

レイ・デイヴィスはアルバムの制作にあたって、ポリー・ガーターをモデルにした曲を2曲書き、「Four More Respected Gentlemen」に収録しようとしたものの、直接的にディラン・トーマスの登場人物の名前を歌い込んだ「ポリー」を外し、残りの一曲を残した。

つまり「モニカ」≒「ポリー・ガーター」説。これが今回の第二の仮説です。
僕はこちらの方が真相に近い気がしています。

■おまけ■



こちらは、上に訳したポリー・ガーターの独白部分の詩もとに、エルトン・ジョンが曲を書き、ジョージ・マーティンがプロデュースした、ボニー・タイラーの「I loved a man」。
これがポリー・ガーターの本質を捉えている気がします。


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| VillageGreen全曲解題 | 20:47 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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