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Village Green 全曲解題10「People Take Pictures of Each Other」
 みんなが夏の写真を撮ってるよ
 誰かがそれを忘れてしまった時に
 そんな夏が確かにあったことを証明するために

 父親たちは母親たちを写してる
 姉妹たちは兄弟たちを写してる
 お互いの愛情を示し合ってるんだ

 写せっこないのは
 僕らが若くて自由だった頃に
 君が奪っていった僕の愛情
 色んな物が昔どうだったかなんて
 これ以上それを僕に見せないでくれるかな

 みんなが互いの写真を撮りあってるよ
 本当にここにいるんだってことを証明するため
 本当にここにいるんだってことを証明するためにさ

 みんなが互いの写真を撮りあってるよ
 誰かが他の誰かにとって大切だった瞬間が
 永遠に残されるんだ

 みんなが夏の写真を撮ってるよ
 誰かがそれを忘れてしまった時に
 そんな夏が確かにあったことを証明するために

 みんなが互いの写真を撮りあってるよ
 誰かが他の誰かにとって大切だった瞬間が
 永遠に残されるんだ

 古い樫のそばに座って親指をしゃぶる
 僕が3歳だった頃の写真
 ああ、あの頃のことを
 僕がどれほど愛おしく思っていることか
 頼むからこれ以上僕に見せないでくれるかな


レイ・デイヴィスは、この曲の着想を、自身が参列した結婚式から得たといいます。
式が終わった屋外で、新郎がやにわにカメラを取り出して、新婦の写真を撮り出すと、今度は新婦が新郎の写真を撮り始め、更には、新郎新婦の父母や列席者までもがお互いの写真を撮り始めるといった、まさにこの曲そのままの光景が、実際に繰り広げられたのだそうです。

そんな知識を頭に入れて聴けば、まさに結婚式後のパーティーで、ポルカ風(?)の弾むような曲調に乗せて、人々が楽しげにお互いを写し合う、ハッピーで可愛い場面が浮んできます。

しかし、そこは冷静な観察者たるレイ先生のこと、当然ながらハッピーなままでは終わらないんですね。
結局彼は、この曲の主題を、そうした幸せなシーンではなくて、ブリッジとなる部分に持ってきました。
僕は前回の記事で、レイ・デイヴィスは写真否定派のようだと書きましたが、彼のその考えは、この曲の途中に挿入される「これ以上僕に見せないでくれるかな」の一言に表れていると思います。
徹底した個人主義者である彼は、人々が写真を撮り合う風景を傍観しながらも、決して自分自身をその輪の中には入れないで欲しいと願います。
なぜなら、彼は写真というものを全く信用していないからです。

彼の写真に対する不信感は、その自伝的小説『X-RAY』の中のセリフに現れています。

「写真?ハッピー・スナップ?何の意味もない。カメラは真実を伝えると言われるがうわべだけだ。機械が解釈した現実を見るより、自分の頭の中にあるイメージを伝える方が良い。また古いナヴァホ理論だが、写真は魂を抜き去る。わたしは子供の頃から写真を撮られるのが嫌いだった。写真を撮られるのが普通のこの世界に入って私がどう感じたかわかるだろう。だから写真では実に情けない顔をしているんだ。『写し合った写真』というわたしの曲を聞いたことがあるか?わたしが写真のイメージの世界に対してどう感じているかを歌った歌だ」

「写真はノスタルジーを呼ぶだけだ。わたしは人々の姿をそのまま思い出したい。写真はその人が年齢を重ねたことをさらけだす。ところが思い出の中では人は年をとらない。だめだ、カメラは残酷だ」

「カメラは嘘はつかないかもしれないが、正直とは限らない。ほんの小さなかけらを狭い視野の中で見せるだけだ。何十秒分の一かの小さな人生の断片だ。両義的であるべき事柄を絶対的にしてしまい、個人的な解釈の余地がない」

うーむ、若干矛盾を感じる部分もありますが、言っていることは分かります。
思い出というのは、人の内面にのみ留まるものであって、写真に封じ込められた過去の場面は、それは思い出とは言わない。なぜならば、写真というものは機械が解釈した現実の一断面に過ぎず、それが必ずしも真実を伝えているとは限らないから、ということですね。

写真は現実を写すけれども、人の内部の感情や思想までもは写せない。人の気持ちは刻々と移り変わって行くのに、写真というものはそうした時の流れや、見る者のいま現在の感情をすべて無視して、過去の姿を無理やりに、そして機械的に突き付けてくる。
だからこそ、写真に対するそうした諸々の葛藤を表現して「これ以上それを僕に見せないでくれるかな」となるのでしょう。

ただ、彼はそのように写真に対して不信感を露わにする一方で、絵画に対しては信頼を寄せる発言をします。
いわく「偉大な絵描きは真実の見方を知っていて、好むと好まざるとにかかわらずカンヴァスにそれを描く。アーティストは内面の経験をすべて描くのだ。カメラは表面をなぞるだけだが、アーティストはその内部の思想を描くのだ」
彼の言葉をすべて鵜呑みにするつもりはありませんし、様々に異論も出る考え方だとは思いますが、しかし僕は恐らくこの言葉は、レイ・デイヴィスの表現者としての哲学なのだろうと考えます。
もちろん彼は絵描きではありませんが、この物事の表面だけでなく内面までも正しく描き出そうという手法は、彼がキンクスでずっと積み重ねてきた表現のやり方だからです。

若干話がそれましたが、それではそれらのことを踏まえて、「Village Green Preservation Society」というアルバムの中での、この曲の立ち位置を考えてみましょう。
この曲は、アルバムに収録された他の曲と同じように、村で起こったある一日の断面を歌っているように見えて、実はアルバムのテーマに直結したひとつの思想を歌っているものと思われます。
すなわち、このアルバムを通してキンクスは“Village Green”をPreservation(保存)したいと願っている。けれども、カメラに映る風景のような、表面的なものだけを守るのでは何にもならない。やはり物事の本質となる何ものかを守って行かなければ駄目なのだ。
習慣や伝統や人々の想いといったものには形がなくて、写真に残すことなどはもちろん不可能だけれども、僕たちが第一に守るべきは、まさに形のないそれらであろう。
つまりキンクスの守りたい“Village Green”とは、人々の想念や感情、思いやりや記憶、あるいは習俗や信仰、儀礼といった、形のない(=写真になど映らない)ものの中にこそ存在するのである。
僕たちはそれらを守るのだ。

いやまあ、レイ・デイヴィスがこの曲に、そこまでの意味を込めていたかどうかは定かでありませんが、しかし歴史に残るコンセプト・アルバムのエンディングとして選ばれた曲なのだから、それくらい言外の意味のあるほうが、むしろ当然だろうと考えます。


さてさてところで、前回「Picture Book」のところで保留にしておいた、ひとつの疑問が残っています。
それは、曲の中で歌われている写真は、どうして主人公が子供の頃のものばかりであるのかという点でした。
具体的には「昔々、君が幸せな赤ちゃんだった頃のものだよ」云々といったくだりですね。
それを念頭に「People Take Pictures of Each Other」の歌詞を見ると、またしても『僕が3歳だった頃の写真、あの頃のことを僕がどんなに愛おしく思っていることか』とあります。

なぜ主人公は赤ちゃんだった頃が幸せだったのでしょうか?

それは、もしもこのアルバムの主人公が、これまでに仮定してきたようにレイ・デイヴィスの分身であるとするならば、答えは恐らく「デイヴ・デイヴィス」にあると思います。
レイという人は、女ばかり5人姉妹の家に生まれた、初めての男の子です。
だから弟が生まれる3歳の頃までは、それはそれは大切に育てられたのです。
そんなレイ・デイヴィスの、最も幸せな時代が崩れ去るのが1947年2月3日、つまりデイヴ・デイヴィスの誕生日。
それはレイが3歳になる直前のことでした。

デイヴが生まれる前までは僕は幸せだったのに、というレイの現実のトラウマが、これらの曲のモチーフとなっていることは想像に難くありません。
デイヴィス兄弟の確執というのは、その発端が幼児期にまで遡れるほど、根の深いものなのですから。


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| VillageGreen全曲解題 | 19:53 | comments(10) | trackbacks(0) | pookmark |
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コメント
この曲の解説によって一気にPreservationの意味が明らかになった気がします
レイ先生は写真が嫌いだったんですね,,,, 「僕にそれを見せないで」というのはそういうことかーといってもレイ先生の特殊な思い出がそういった考えが出てくる理由の一つなんでしょう

レイ先生の言うことはやはり批判的でついつい見入ってしまい鵜呑みにしてしまいそうです
「写真より絵が好き」なんて考えてもみなかったです
私はそういう絵画を見て育ったわけじゃないので,どうも絵より写真の方が親しみやすいです
写真をみて(ああ,,こんな事もあったなぁ)と思い出が浮かんでくるもんです,悪いもんじゃないな―
これを期にきっと私は思い出とか写真とか内面外面を意識して生きると思います(笑)
| calfarm | 2012/06/14 8:39 PM |
いやあ〜 相変わらず読みごたえのある記事でした! そして私も、半分はレイ師匠に同意ですかね。

というのも、瞬間瞬間は自分の記憶の中にあるからこそ輝いて、物理的な形で残らないからこそ儚くて素晴らしい。と私も考えているからです。

とかいいつつ、本当は、周りで大勢の人々が桜の写真とかを撮ったりしているのをみて、「けっ、みんなが撮ってるから俺は撮らなくていいや。なんかみんなと同じ俗っぽいことしたくない。」みたいな、何かひねくれたカッコつけからきてる部分が多分にあったりしますが 笑

人と違うことをしたり、多数の人が好んでいることを否定したりする時って、大抵その事柄に対して自分がコンプレックスを抱えていたり、「輪に入れない自分を否定的に捉えたくないから周りを否定しちゃう」ってのが理由にあることが多い気がします。 だからもしかしたらレイ師匠も、理論で固めていろいろ言ってはいるものの、本当は周りに馴染めないコンプレックスからこういう考えにならざるを得なかったのかな?とかも思います。
たとえ虚勢から来る嘘であろうとも、長年本人が信じ続ければいずれは「一個人にとっての真実」に変わりますしね。

最初に半分賛成と述べたのは、そうはいいつつも私もやっぱりみんなと同じことをしたい時もあるし、俗っぽいこともしたい。写真だって本当は撮りたいんだ!って気持ちがあるからなんです。 周りに馴染めないコンプレックス。私個人はこの感情からひねくれている。というかひねくれるしかないんですよね 笑

多分、キンクス聴いてこのサイトに来てる人なら、私の悩みに共感してくれる人もたくさんいるんじゃないかな?
というか、いてほしいな〜 笑

では、長文失礼致ししましたm(_ _)m
| ノリアン | 2012/06/15 3:25 PM |
calfarmさん
コメントありがとうございます。

>ついつい見入ってしまい鵜呑みにしてしまいそう
レイ・デイヴィスという人は、過去のインタビューなどを読んでも、確かに説得力のあることを話します。
なもんで、こちらも無防備にそれを受け入れてしまいがちになるんですけど、でもよくよく考えると、それってどうかなあ?というようなことも結構言ってます。

今回の記事でも
「人々の姿をそのまま思い出したい。写真はその人が年齢を重ねたことをさらけだす。ところが思い出の中では人は年をとらない」ってなんかすごく矛盾してる気がするし(写真の中の人だって年をとらない)、「カメラは表面をなぞるだけだが、アーティストはその内部の思想を描くのだ」って、いやいやそれはないだろう、とかね、記事を書きながら思いましたしね(つまり優れたカメラマンは一流の画家にも匹敵する)。

レイ先生の場合、受け手をいちいち煙に巻くみたいなところがあるので、写真嫌いが本心なのかどうかも、ちょっと怪しいと感じています。

普通は写真を見れば、calfarmさんのように思い出が浮かんでくるものだと思うのですが、もしもレイ先生が本当に写真嫌いだとするならば、それはきっと思い出したくない過去が多すぎるせいなのかも知れません。
| Pandaboy | 2012/06/15 5:48 PM |
ノリアンさん

>私の悩みに共感してくれる人もたくさんいるんじゃないかな?
おお、これには共感どころか「お前は俺か?」ってくらい激しく同意です。
「輪に入れない自分を否定的に捉えたくないから周りを否定しちゃう」というノリアンさんのこのコメントって、恐らく多くのキンクス・ファンの考え方、モノの感じ方…をかなり的確に表してるんじゃないかなあ?
そうなんだよ、俺もどうにも人と違うことをしたがっちゃうのって、あれって多分コンプレックスなんだよなあ…

きっと、レイ先生も同じようなコンプレックスを抱えて生きている人なんじゃないかと想像してしまいます。

しかし、それにしても最初の
>瞬間瞬間は自分の記憶の中にあるから……残らないからこそ儚くて素晴らしい
というのもまた上手言い回しですね。
僕が本文で、なんかまとまらなくて、ダラダラと書いてしまったことを、わずか2行で言い表されてしまった気がします。

それといま、コメントに「桜」という言葉が出ましたけど、
例えば僕たちが、どれほど美しい桜の写真を見ようとも、それが現実に咲いている桜の魅力に勝てないのは、写真の桜が永遠に美しい姿を留めるのに対して、目の前の桜はいずれ散り行くことを、僕たちが知っているからなのではないでしょうか。散り行くからこそ僕たちは、桜の花を愛でるのだ…

…というのが、ここでのレイ先生の言わんとするニュアンスかなあ?
なんかうまく言えないですけど。
| Pandaboy | 2012/06/15 6:00 PM |
こんばんは。
ノリアンさんのコメントを読ませていただき
私も思わず、うん、うんとPSの前で頷いてしまいました。

私は自分でひねくれてるとは思いませんが
(やっぱりちょっと思います・・・)
世俗的な人たちからしたら、たぶん風変りな人に映って
いると思います。
なんとなく察するものもありますしね。。
昔は、自分の気持ちに逆らって生きてきましたが、やっぱり
疲れてしました。
そんな中でキンクスという素晴らしいバンドに出会い、
レイの世界にいることが自分の居場所のようにもなって
いました。(今もそうかな。)
ここだから言えることですが、キンクス好きな人とお友だち
になりたいな。。といつも思っていましたが、こんなことを
いうのも畏れ多いのですが、今こうやってキンクス好きの人
たちが集まる『キンクス日和』という素敵な場所があり、
コメントができてとても嬉しいです。
キンクス好きな人は、pandaboyさんをはじめ、感性の豊かな人
が多いんだなと改めて思いました。
| メロディー | 2012/06/15 9:26 PM |
メロディーさん

お返事遅くなりました。

>風変りな人に映っていると思います
あら、そうなんですか?
僕なんかはメロディーさんのコメント拝見したり、ミンちゃんのブログを読ませていただく限り、極めてノーマルな方を想像するのですが、実際は違うのでしょうか。

ひょっとしてら、キンクスのファンって、みんな結構『I'm Not Like Everybody Else』という気持ちを持って生きているのかも知れませんね。
僕にしても、どうにも自分のひねくれたというか、斜に構えた部分というのは、これはもう一生治らないものと諦めてますから。

誰もが知っての通り、英語でKinkは「よじれ」とか「気まぐれ」(というかハッキリ言って「変態」)という意味ですけど、今回の皆さんのコメントを拝見すると、今更ながらこの“キンクス”というネーミングの絶妙さに驚かされます。
| Pandaboy | 2012/06/19 12:47 PM |
久しぶりのコメントになります。

というか、この曲か「Picture Book」にコメントを入れるつもりでした(笑

僕は高2の頃から、ほとんど写真を残していません。
クラス写真と卒業アルバムくらいでしょうか。
体育祭や修学旅行などのイベントでは、カメラから逃げ回っていますし、仮に写っていたとしても買ってないので手元にはありません。
それまでの写真などは親が持っていると思いますが、改めて見たいとはまったく思いません。
免許の更新のときくらいですが、それさえも本音を言えばイヤです。
前に日記を書くのもイヤだと述べたことがあったような気がしますが、それと同じ理由です。

自分の人生をなかったことにしようとまではは思いませんが、自分の人生をアーカイブすることに興味がありません。

たぶん誰も見ようとは思わないだろうし、僕自身も見たくない。


「頼むからこれ以上僕に見せないでくれるかな」

この最後のくだりに強く共感せずにはいられません。


ただ、僕のこれまでの苦悩の人生での経験を示すことで、若い子達にある程度の道を示してあげることができたことで少し救われたし、そういう意味ではまんざらでもなかったかもしれませんけどね。

それでも、それを後世に残そうとは思わないですね。
そういう役目は他の人にお願いしたいね(笑

何かちょっと座標がズレてしまったかもしれません(苦笑

ズレたついでにぶっちゃけておきますが、僕は自殺は消極的肯定派です。
中村とうようさんのことなんかもコメントしたかったのですが、ここが荒れたらいけないので断念しました。

一つだけ言えるのは、確かに他人に迷惑をかけるし人に薦めるつもりはありませんが、それが正しいか間違ってるかなんて誰にも分からないと言うことです。

もしかしたら本人もね。

人から見た印象なんて、いち側面に過ぎませんからね。


これ以上ズレてはまずいのでこの辺にしておきます。


| Graham | 2012/06/19 5:56 PM |
パンダさん、お久しぶりです。ついにこの曲の登場ですね。
自分もX-Rayでの写真やこの曲に関するセリフは印象に残っていました。
X-Rayで言う写真で取り繕ったノスタルジーと、「celluloid heroes」でのノスタルジーは違うものなんでしょうか。
うまく表現できませんが、「celluloid〜」は万人が嫌な思いひとつせず浸れる、時代の匂いを漂わせた過去であって、家庭での嫌な思い出の残る写真の過去とは別物…。
レイに例えれば、弟に愛情を注ぐ親への憤りを思い出させるのが写真なら、その鬱屈とした気持ちを晴らしてくれたチャック・ベリーがcelluloid〜でのノスタルジー、って感じでしょうか。

歌詞の中で「3歳だった頃」なんてモロに出てくるということは、レイが自身をモデルにしている可能性が高そうですね。なるほど〜!
| いたち野郎 | 2012/06/20 1:17 AM |
Grahamさん
お久しぶりです。

僕も写真に関しては、おおむねGrahamさんと同じです。
僕もそうですね、ここ数十年は写真というものに積極的に入ろうとしなくなりました。
まあ、僕の場合は人生をアーカイブすることに興味が無いというよりは、単に自分の写真映りに自信がないだけなんですが…。

それから後半の自殺についてですが、これは僕の前回の記事に対するコメントかと察します。「消極的肯定派」というのが難しいですが、「理由によっては容認する」ということでしょうか?

僕は前回までに「全否定派」と書いてきました。
それで、コメントをいただいて、改めて色々考えてみました。
うん、確かに人生には、場合によっては自死という選択をせざるを得ない局面も、或いは存在してしまうものかも知れません。それは否定できない事実として認めます。
ただ、そうした局面は存在するかも知れないけれども、それでもやはり、その選択は誤りであると思いたいです。

以下、簡単に理由を述べます。

まず第一に、自殺はとりもなおさず殺人であるということ。
加害者と被害者が同じというだけであって、自殺は歴とした人殺しであると考えます。
「人は人を殺してはいけない」だから「自分も殺してはいけない」。これが第一の理由です。
「なぜ人を殺してはいけないか」という話になると、これは延々と続くことになるのでここでは触れません。

第二に、自殺は周りの人間の心にひどい傷を残します。
遺族、ことに自殺者の遺児の苦しみは、想像を絶するといいます。
死体の処理や何かで、一時的に他人に迷惑を掛けるというだけでは済みません。
最悪の場合は連鎖を生みます。

それから第三は、これはまあ全く科学的な話じゃなくて、あまり説得力もないんですが、やはり自ら命を絶った人間は「成仏」できないのではないか。
キンクス日和でこんな話もなんですが、実は2年ほど前に、信頼できる知人から、そういった現象に関する実体験を聞いて、ひょっとしたらそんなこともあるかもなあ、と漠然と思い始めたものですから…。

他にも幾つか出せるでしょうけど、いまはざっとこんなところが、僕が自殺に反対する理由です。

それと、これを考えていて僕なりに感じるのは、病気を苦に自殺したボブ・ウェルチよりも、癌に冒されて、自分の余命を知りながら、最後のアルバム作りに命を燃やしたウォーレン・ジボンの生き方の方が、残された人たちに「道を示してくれる」んじゃないかということです。

しかし、いずれにしても自殺の肯定否定、どちらが正しいかなんていうのは、永遠に答えの出ない問題なのでしょう。

いつもながらGrahamさんのコメントには、身の引き締まる思いがします。
またよろしくです。
| Pandaboy | 2012/06/20 5:38 PM |
いたち野郎さん
コメントありがとうございます。

いたち野郎さんもお読みになって覚えておられるでしょうけど、レイ先生はX-Rayで、ミュージック・ビデオについても否定的な意見を述べてましたね。
ビデオは曲のイメージを限定してしまうからダメだ、みたいな話でしたけど、その割にはキンクスって、早い時期からビデオ・クリップ沢山作っているような…?

ということで、レイ先生って、言ってることとやってることが結構違う人だったりします。

でも、そうですね、「celluloid heroes」の追憶は万人向けだからYES。けれども写真からくる追憶は、プライベートでの嫌なことを思い出させるからNO、というのは、的確な把握だと思います。
どこかに彼なりの境界線があるんでしょう。

しかし、改めて思うけど、キンクスというのは、歌の世界と作者の私生活が非常に近いバンドですね。それだからこそ、みんながこんなことを色々と考えるんでしょうね。
| Pandaboy | 2012/06/20 5:39 PM |
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