たとえば「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」という人は、一体何をして食っているのだろう?と疑問に思ったりする。
「俺はハリケーンのさなかに生まれて歯の無い髭の婆に育てられた」と自分で言っている位だから、その生い立ちは不幸であったとはいえ、少なくともちゃんとした人間であることは間違い無いのだ。
しかし、彼が会社に行って取引先に頭を下げたり、家では汚れた皿を洗ったり、足の爪を切ったりという普通の生活者がするような生活を送っているとは到底思えない。それどころか雨の日に傘さえ差さないんじゃないかと思うほどの生活感の無さである。
同じように「ハイウェー・スター」という人は車に乗っていない時はどのような生活を送っているのだろうか。
「サージェント・ペッパーのロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のメンバーはどこから給料をもらっているのだろうか。
「Tommy」はしかし、いくらなんでもピンボールひとつで神の如く祀り上げられるなんて、ありえないよね…。
などなど、ロックの歌詞には考えても考えても社会人としての人物像を想像し難い人達が沢山登場してくる。
まあ、ロックの歌詞なんて一種のファンタジーか、そうでなければミュージシャンの意思表明の道具なのであるから、小市民が町中でアレして家に帰ってコレしてなどという些細なことは、そもそも歌になどならないのかもしれない。
ところがここに、平凡な人々の日常をまるで生活感に満ちたホーム・ドラマのような曲にして歌ってきたバンドがある。
言わずと知れたキンクスである。
税務署に何もかも取られてしまい、彼女には車を持っていかれて、明るい夏の午後にビールを飲みながらフテ寝をしてる男(サニー・アフターヌーン)。
先端のファッションを求めてロンドン中のブティックを回って歩く若者(キザな奴)。
クラス一の人気者でチームのキャプテン、デビッド・ワッツみたいになりたいなと夢想する少年(デビッド・ワッツ)。
洗濯をしながら或いはフライパンでベーコンエッグを作りながら、派手好きで奔放な生活を送る姉に嫉妬する地味な妹(トゥー・シスターズ)。
奥さんの母親にもっとちゃんとした仕事をしなさいと尻を叩かれるさえない夫(シチュエーション・ヴェイカント)。
レイ・デイヴィスの作品中に登場するユーモアとペーソスにあふれた人々は僕達の周りに一人や二人は必ず居そうな人達ばかりである。
大体、レイという人は他のロック・ミュージシャンとは別の視点からものを見るのに長けた作家で、1960年代中期のスィンギング・ロンドンのさなか、イギリス中の若者が都会へ都会へと目を向けて、古くから大切にされてきた慣習や文化が軽視されていた時代に「田舎の緑を大切にしよう」というコンセプトのもとにアルバムを作った人なのだ(ヴィレッジ・グリーン・プリザベーション・ソサイエティー)。
40や50のおじさんの仕事ではない、レイは当時24歳である。
また、ベトナム戦争が激化して米英のミュージシャンがこぞって反戦歌を歌っている時期に、レイは「世界中で戦争が起こっているのは知っている。でも僕は今日、君とドライブに行きたいんだ」(ドライヴィン)と軟弱な歌を作りヘナヘナした調子で歌った。
しかし、イギリスの普通の男の子がこの当時考えていたのは、ベトナム反戦についてなどでなく、案外この程度のことだったのではないだろうか。
僕にとってのキンクスの音楽は「癒し」の音楽である。
癒しの音楽などというと、作曲家がはじめから人間の五感に対する安らぎということを意識して曲を作り、人々はそれによって癒されると思いこんで有難がって拝聴するという、一種の気休めの薬のような気がしてどうも好きになれないが、もちろんキンクスはそんな風にして曲を作っている訳ではない。
レイ・デイヴィスは普通の人々の普通の生活の中から、ともすれば見過ごされてしまいそうなある一瞬を切りとって、曲にして歌っているだけである。
しかし、それによって僕は間違い無く安らぐことが出来る。
つまり、癒しなどわざわざ求めるものではなく、日常生活の何ということのない平凡な時間の中にこそ存在しているということなのだ。
キンクスを聞いているとそんな気がしてくる。
そして、レイ・デイヴィスはもう40年以上も前にそのことに気づいていたのだと思う。
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