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Konk Studio for sale




あのコンク・スタジオが売りに出されている模様。

1970年代初期にキンクスのプライベート・スタジオとして開設されて以来、シン・リジィやビージーズ、エルビス・コステロ、ベイ・シティ・ローラーズ、ストーン・ローゼズ、その他多くのミュージシャンに愛用されてきた歴史あるスタジオです。

スタジオの売却と言えば、今年2月には、あのアビーロード・スタジオがEMIによって売りに出されてたばかり。
この時は世間からのあまりの反響の大きさに、売却計画の見直しということでとりあえずは収束しましたが、コンクの場合はどうなんでしょう。
できれば、歴史的な建造物として保存してもらいたいところなのですが。

売却価格は200万ポンド、日本円にすると、本日の為替レートだと大体2億7千万円くらい。
おっ!安いじゃん!と思った方、是非ご購入をご検討ください。

しかし、キンクスのホームグラウンドが手放されるというこの事実。
何かとんでもない裏でもなければ良いのですが…。


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| Around The Kinks | 12:22 | comments(2) | - | pookmark |
アーサーを読み解く6 「Australia」

 誰もがオーストラリアで暮らせる機会が到来したよ
 君が若くて健康ならば
 ボートに乗ってオーストラリアへ来ない手はないぜ

 オーストラリア、生涯のチャンス
 オーストラリア、働きがいもある
 誰も肩肘張って生きなくていいんだ

 オーストラリア、階級差別もない
 オーストラリア、麻薬中毒もない
 誰もケンカ腰で生きなくていいんだ

 アメリカ人がするようにサーフィンをしよう
 休暇にはシドニーまで飛んでいこう
 日差したっぷりのクリスマス
 オーストラリア、オーストラリア

 誰もが人生を謳歌できる単純明快な国だよ
 君が若くて健康ならば
 ボートに乗ってオーストラリアへ来ない手はないぜ

 オーストラリア、シャララララ
 オーストラリア、シャララララ

 みんなが周りにいて憂鬱になってる暇なんてないよ
 アメリカ人がするようにサーフィンをしよう
 休暇にはシドニーまで飛んでいこう
 日差したっぷりのクリスマス
 オーストラリア、オーストラリア


イギリスには多くの貧困者や孤児、あるいは囚人がいて、国家はこれを養いきれない。
一方のオーストラリアは国土の割に人口が少なく、労働力となる移民を積極的に受け入れたい。
両者の思惑が一致して、イギリスからオーストラリアへの人口の流入は過去数世紀にわたって続けられてきました。

1828年には大英帝国の植民地となったオーストラリアでしたが、1901年に独立。
しかし、その後もオーストラリア国王はイギリス国王と同一人物(ちなみに初代国王はヴィクトリア女王)という状態が、現在に至るまで続いていますから、両国の関係は20世紀以降も密接なままのようです。

そんなオーストラリアへ渡って、素敵な人生を手に入れよう!と歌うのがこの曲です。歌っているのは、そうするとイギリス政府か、政府から委託された国策企業といったところでしょうか。
物語の中で、このオーストラリア移民奨励キャンペーンに乗って、彼の地へ渡ろうとするのは、アーサーの息子夫婦(デレクとリズという名前らしい)ということになっていますが、アルバムの曲が時系列で並んでいるとするならば、実際の移住はまだまだ先の話です。

ところで、曲中では理想郷のように歌われるオーストラリアには、本当にそんな夢のような暮らしが待っていたのでしょうか。
そのひとつの答えとなるかどうか、ここには2009年11月にアップされた、次のニュースを転載しておきます。


子供を豪州に棄民=英首相が謝罪へ


英スカイ・テレビ(電子版)は15日、白人移民の増加を望んでいたかつてのオーストラリアに対し1940〜50年代、英政府が児童施設の子供を選抜しては国策として送り込んでいたとして、ブラウン首相が近く公式に謝罪すると伝えた。
当時の英政府は、児童施設の予算確保に苦しんでおり、豪州の要望は「渡りに船」だった。総勢1万人近い子供がだまされて送り込まれたとみられている。(2009/11/16) 時事通信



自国の子供を自力では養えないほどの国力の低下。
それを威勢の良い甘い言葉で隠しながら、国民に移住を奨励する国家。
そうしたイギリスの裏側の歴史を頭に入れた上で改めて聴けば、一見楽天的に聴こえるこの曲にも、しかしながら「Yes Sir, No Sir」あたりと同じ、支配者階級による庶民いじめに連なる内容が隠されていることが分かってきます。


さて、既にこの「アーサーを読み解く」シリーズの序章のところに書いた通り、本作品の主人公アーサーにはモデルがいて、それはデイヴィス兄弟の姉ローズと結婚したArthur Anning氏。
デイヴィス兄弟にとっては義理の兄にあたるわけですが、特にレイは若い頃、この夫婦の家に頻繁に入り浸っていたということですから、人の好き嫌いが激しそうな彼にしては、まずまずの好感を持って接することのできる相手だったようです。

ところが、1960年代に入ると(資料によっては64年)、この義兄は突如として、一家を挙げてオーストラリアへ移住してしまいます。
このあたり、ちょっとややこしい話ですが、「アーサー」のアルバムの中で、オーストラリアへ移住しようとするのはアーサーの息子夫婦。しかし現実にオーストラリアへ移住したのはアーサー夫婦自身です。

彼らのオーストラリア移住は、レイにとって相当にインパクトのある事件だったとみえて、後年「アーサー~」アルバムへと結実するのですが、実はアルバム以前にも、彼はこれを題材にした曲を一曲書いています。
「Face to Face」に収められていた『Rosie Won't You Please Come Home』です。
曲中のRosieというのは、勿論アーサーと結婚したローズ・デイヴィスのことですね。

この曲、邦題では『ロジー、家に来ないかい』となっていて、タイトルだけ見ると、まるで恋人を家に誘ってるような印象ですが、歌詞を読めば「ママは君がどこに行ったのかを知らない」「君の部屋は綺麗なまま、誰にも入らせていない」「もう一度幸せな家庭が戻るなら、僕は何でも犠牲にする」といった言葉の端々から、かつては家族の一員だった女性(娘あるいは姉?それとも嫁?)に対して「ロジー帰ってきておくれ」と訴えかけていることが明白です。
そのあたり、娘夫婦の大陸移住に寂しさを募らせる父親の心情とも読み取ることが出来そうで、そうしてみると、この曲も、一連のアーサー譚のエピソードとして、アルバムとどこか繋がっているようにも思えます。

「Face to Face」の発表は1966年のことですから、「アーサー~」アルバムが制作される3年ほど前ですが、レイの中では、後に着手することになるロック・オペラのアイデアは、実はこの頃から芽生え始めていたのかもしれません。


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| Arthurを読み解く | 23:02 | comments(0) | - | pookmark |
Facebookに書かれたレイのコメント

「私たちはピートの追悼式に関して、多数の質問を受けています。
初めに申し上げておきたいのは、これはキンクス再結成でもなければ、コンサートでもないということです。
それはピートの人生を何曲かの歌で祝福する、家族、友人、ファンによる式典です。私たちはおよそ150人ほどのファンとお会いすることができるでしょう。
私は今後、それがいつどのように行われるかについて情報をアップデートしていきます。」


どうもピートの追悼式では、残された3人によるパフォーマンスがありそうです。
ただ、それはごく限られた身内だけの式典のようで、普通のファンは参加できないみたいですね。
まあ、参加できたにしても、開催地はデンマークとかになるでしょうから、日本からの出席は難しいかな。

開催の詳細は逐一アップされるようですので、興味のある方は要チェックです。

Ray Davies Facebook Page




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| Around The Kinks | 12:25 | comments(0) | - | pookmark |
アーサーを読み解く5 「Brainwashed」

 お前はまったく人間みてえだけど
 心はお前のものじゃねえ
 そう、お前は話ができるし、呼吸もできる
 お前の仕事、刺繍や裁縫だってできる
 だけどお前は洗脳されてる
 そうなんだ、そうなんだぜ
 そこに膝まづいてみな

 お前には仕事がある、家がある
 カミさんにガキども、それに車
 そりゃそうさ
 お前は奴らの思いのままになるように
 条件づけられてるんだからな
 それにお前が自分の居場所に満足するようにもさ
 そうなんだよ
 そこに膝まづいてみな、膝まづけったら

 貴族と官僚は薄汚いネズミだぜ
 お前みたいな人間を作り上げるんだからな
 奴らは高みにいて、お前はこんなどん底にいる
 お前はこんな地べたを這っているってのに、
 奴らは星と一緒にお空に浮かんでるのさ
 お前は一生涯、奴らにこき使われて苛められる
 お前が使い物にならなくなっちまうその日までな
 奴らにとってはお前なんか汚れたシミみたいなもんだ
 だけど、お前はそれ以上を望もうとしないってんだな
 だんな、あんた洗脳されてるぜ

 奴らはお前に社会保障とか
 満期になると戻ってくる節税給付金をくれる
 お前は奴らの思いのままになることに
 満足しているんだな
 それに奴らの思い通りに動くことにも
 そうなんだ、そうなんだよ
 そこに膝まづいてみな

 

ま、一言でいえばブリティッシュ・パンクです。
イギリスで生まれ育った者以外には理解できない、階級間に流れるこの敵意に満ちた複雑な感情。

ピンク・フロイドなども曲にしているように、イギリスには「us and them」という特有の言い回しがあって、それはつまり「us=労働者階級(俺たち)」と「them=支配階級(奴ら)」であるわけですが、先に『Yes Sir, No Sir』でも見た通り、異なった階級の間の溝の深さは尋常じゃないらしく、イギリスには「二つの国民」が住んでいるとまで言われています。
ひょっとしたらレイ・デイヴィスは、このアルバムをイギリス以外でリリースするつもりがなかったんじゃないか?と思わせるほどの、異国人には分からない、階級意識むき出しの1曲であります。

もちろん歌詞を読めば、言いたいことは分かります。
どこかの国にも「定額ナントカ金」とか「子供カントカ」というのがあったように、為政者が社会保障や給付金で国民を手なずけるというのはよくある話です。
しかし、生れついた階級によって、言葉やアクセント、居住地区、進学できる学校から職業まで、全て区別されているという、イギリスのディープな社会構造を暗に示したこのような歌は、やはりその社会で生きている人間にしか理解できないものでしょう。

僕の記憶違いでなければ、この「アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡」のアルバムは、イギリス人にはリアル過ぎて不快な部分もある、という話をどこかで聞いた気がしますが、これなどはその典型的な一曲でしょうね。


「アーサー」の劇中歌としては、主人公は持って生まれた純粋な心を戦争によって踏みにじられ、これを苦にして現実逃避をし、自暴自棄の果てに、遂には支配階級に懐柔されて従順な一市民として生きることに何の疑問も抱かない人物になってしまう。
それを「us」のひとりである何者かが「お前は洗脳されてるんだ」となじっている、という理解でいいのかなと思います。

歌詞の2つめのブロックには「お前にはカミさんとガキどもがいる(a wife, and your kids)」という言葉があって、アーサーが家庭を持ったことが分かるようになっています。
また、これまで書いて来ませんでしたが、ドラマ版の設定では、アーサーの職業は絨毯職人ということにされていまして、これを暗示するのが、最初のブロックにある「刺繍や裁縫だってできる(you can stitch, you can sew)」という歌詞ですね。
そもそも絨毯職人のことを知らなければ、歌詞を見て「何でいきなりお裁縫?」と疑問に思った方もいたのではないでしょうか。

それはともかく、家族や職業が明かされたことで、ここに至っていよいよ、労働者階級として生きる「市民アーサー」の素顔が現れてきたなという感じがします。


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| Arthurを読み解く | 23:25 | comments(0) | - | pookmark |
デイヴによるピート追悼コメント全訳

僕がピートと会ったのは兄のレイを通じてだった。
ピートは僕より3つ年上で、兄と同じ年。
兄とピートは、僕らがみんな通ったマスウェルヒルのWilliam Grimshaw Schoolという中学校で同級生だった。

ピートがギターを持っているのを見つけた時から、僕らの腐れ縁が始まった。それ以来、僕らはいつも一緒にいるようになった。
僕らはいつだって、ベンチャーズとかシャドウズ、バディー・ホリーやエディ・コクランなんかの音楽の話をして、それから女の子とかフットボールとか、つまり普通の男の子が普段話すようなことも話した。

バンドを組むことになった時、レイもピートも僕も、みんながギタリストだったから、誰をベースにするかはくじで決めた。
結局ピートが貧乏くじを引いたけど、僕はそれが正しかったとは思ってない。だって僕は即興演奏が得意で、レイは色んなスタイルを真似るのが得意、でもピートは両方得意だったからね。

僕らの最初のギグは学校のダンス・パーティーだった。
僕らは3人でひとつのアンプから音を出したけど、それでも俺達ってスゲエなあって思ったよ。
この頃には誰もシンガーじゃなかったから、僕らは「アパッチ」みたいなインスト・ナンバーをメインで演ってたんだ。

ピートは僕と同じで社交的。いつも違うことにチャレンジしているように見えたし、何をするにも怖いものなしだった。

スタジオに入るようになると、彼は完璧なミュージシャンになった。ギターやベースのアドバイスをくれたし、アレンジを手伝ってくれたり、それにバッキング・ヴォーカルも最高だった。
僕たちはみんなママス&パパスとかラヴィン・スプーンフル、フィル・スペクターなんかに興味があったから、そこからピートは「ウォータールー・サンセット」での"シャララ〜"コーラスなんかを思いついたんだ。

彼はグループの大使を自任していたけど、なるほどねって感じだったね。彼は人と会うのが大好きで、そして図々しいんだ。
レイは内気でしかも無口、僕は荒っぽくて周りのみんなを怒らせたけど、そんな場合でもピートはいつだって、何を言うべきなのか心得てるみたいだった。
ピートには愛嬌があったから、僕とレイとの間の接着剤になってくれたし、橋渡し役にもなってくれた。ピートは言わば外交官だったんだ。

ほんの子供の頃から一緒に成長してきて、お互いを分かりあって絆も深まった。
僕らは芸術を学びに大学になんか行かなかったけど、行ったと同じくらいのことを学んだ。
僕らは音楽の新しいジャンルを発見したと思って、それに熱狂した。そしてそれが僕らの音楽に純粋さとか自発性、攻撃性をもたらして、僕らは益々親密になっていった。
音楽が成長すると同じく僕らも成長した。自分たち自身を発見し、互いの個性を獲得していったんだ。

単純に聞こえるかもしれないけど、ピートがそこに居たという事実が、キンクスに他との違いを作りだしていた。
みんながグループの原動力として役割を演じていたけど、もしも彼がそこにいなければ、僕らは何か違うものになっていたかもしれない。

ピートはキンクスのヴィジュアル・アイデンティティーを作るのにも重要だった。
彼がチャリング・クロス・ロードで「The Outfitter」という雑誌のグラフィック・デザイナーとして働き始めた頃、僕はレスター・スクエアの楽器店で働いていたから、キングリー・ストリートのコーヒーバーでランチをとりながら、バンドのヘアスタイルとかジャケット、靴のアイデアを、ナプキンの上にスケッチしたものさ。
僕らはカーナビー・ストリートやキングリー・ストリートの小さなブティックを覗いて回った。
ピートはアンジェロ&デヴィッドというブーツショップで、イタリアのキューバン・ヒールを見つけ出して、僕にタフ・ハイのレザーブーツを作ってくれた。

仕事が終わると、僕らはドベルのジャズ・ショップを出て、ピカデリークラブへ行った。
僕が若すぎたので、彼は僕を裏口から入れなければならなかったけど、そこで僕らは初めてストーンズを見たんだ。それから僕らはthe 51 Clubへも度々行った。

ピートは本物のモッズだった。僕たちは車でギグに向かったけど、彼はアノラックを着てヴェスパに乗ってやって来るんだ。
途中でカフェに立ち寄るから、彼は僕らがステージの準備をしている頃に、汚れたアノラック姿で現れる。煤けた顔からゴーグルを外して、アノラックの下に着込んだステージ衣装になるんだけど、彼はとっても不潔なんだ。

ピートは一番好きなキンクスのアルバムを「The Village Green Preservation Society」だと言っていたけど、これは不思議だなあ。だって、それは彼がキンクスでプレイした最後のアルバムで、その頃にはもう、彼の心はキンクスに無く、失望しているもんだと思っていたからね。
僕は、彼がクリエイティブな面で、僕とレイとの間で押しつぶされると感じたんだと思う。

ピートと僕は、何で彼が辞めるのかについて、じっくり話し合ったことはない。僕ら何も言わなくてもOKなんだ。僕は彼にこのことについて訊ねたことさえない。もしも彼が辞めたいのなら、それが彼のしたかったことなんだ。
振り返ると、僕らは互いの気持ちがひとつになって理解しあうことが出来たことを、なんて運が良かったんだろうって実感するよ。

キンクスが最後に顔を合わせたのは、1990年のロックンロールの殿堂入りの時だけど、1997年に僕がニューヨークのボトムラインに、デイヴ・デイヴィス・バンドで出ている時にもピートは来てくれていたんだ。
僕らは「You Really Got Me」をやって大いに受けた。
バンドのベーシストが言うには「彼は僕と同じラインを弾くのに、どうして彼の音はこんなに違うんだ?」。これがピートを表している。つまり何を弾くかでなくて、どう弾くかなんだ。

ショーのあと、僕らは抱き合って別れたけど、歩きかけたピートが振り返って言った。
「デイヴ…」
だけど、彼は何かを言いかけて止めたんだ。
それが何だったのか、今でも僕は気になって仕方がない。
何故なら、ピートは僕のバンドに入れて欲しかったんじゃないかと思ってるんだ。だけど僕は愚かにもそうしてやることができなかった。
その時のベーシストなら、他の楽器に変えることができた。
そうしていれば、ピートと僕は今でも一緒にプレイしていたはずだったんだ。

僕は彼のことを兄弟同然に愛している。
彼は僕の家族の一員だった。

僕らが子供だった頃、庭の柵の上にドアのキーを置いておくと、彼はそれを使って僕の家に自由に出入りしてたっけ…。


以上がMOJOのサイトに載った、デイヴ・デイヴィスによるピート・クウェイフ追悼コメントの全文です。
大筋は合っていると思いますが、誤訳などありましたら、どうかご容赦ください。


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| Around The Kinks | 19:15 | comments(8) | - | pookmark |
アーサーを読み解く4 「Drivin'」




 なんだか世界中がいさかいを起こしてるみたいで
 みんな戦争についてああだこうだ言ってるよ
 でも、ロシア人とか中国人とかスペイン人なんかには
 勝手に争わせておけばいいんじゃないのかなあ?
 だって太陽がこんなに眩しいんだし
 僕たちはドライブに行こうよ、ドライブに

 仕事なんてほっぽり出して
 悩みもみんな忘れちゃってさ
 さあ、僕の車に乗りなよ
 僕とドライブに行こうよ

 サンドウィッチは包んだし
 お茶もポットに入ってるよ
 ビールだってグズベリーのタルトだって
 こんなに沢山積みこんでるんだ
 だから、ドライブに出かけようよ

 良かったら君のママも誘いなよ
 草の原っぱで食事をしよう
 甥っ子も従兄弟も、兄さんも姉さんもみんな忘れてさ
 僕たちがいなくても誰も寂しがるわけないじゃない
 だって僕たちはドライブに行くだけなんだから、ドライブにさ

 何千本もの木々や
 何百もの野原
 何百万という鳥だって見れるんだよ
 さあおいでよ、僕とドライブに行こう

 牛に話しかけてみよう
 羊を見て笑ったり
 草の上に寝転んだら
 ちょっとウトウトしたっていいかも
 だから、ねえドライブに行こうよ

 僕らの周りのいがみ合ってる世界なんて
 全部スパっと忘れられるさ
 借金の取り立ても
 質屋の取り立ても
 おととい来いって言いたいね
 て言うか、誰も僕らを見つけられやしないよ
 だって僕たちはドライブに行くんだから、ドライブにさ

 バーネットの教会を過ぎて
 ポッターズバーまで足を伸ばそうかな
 そんなに遠くまで行くわけじゃないから
 帰りも遅くならないよ
 だから僕とドライブに行こう、ドライブに行こう
 ドライブに、ドライブにさ


「Yes Sir, No Sir」で小突きまわされ、「Some Mother's Son」で兄弟を失ったアーサーは、遂に現実逃避に向かったということでしょうか、全ての争いごとから逃げ出して、恋人をドライブに誘います。

歌詞の中の「スペインが戦争をしている」という記述に注目すると、この歌の時代背景は1925年頃じゃないかと推測されます。
20世紀前半にスペインが関わった戦争は1920〜26年のスペイン・モロッコ戦争と、1936年〜39年にかけてのスペイン内戦。
ただ、この歌の主人公がアーサーであるとするならば、1936年以降では彼は40歳を過ぎてしまうから、これは時代が下り過ぎ。
となれば、これはスペインがモロッコと戦っている頃の話なんじゃないか、となるわけです。

すると一方では、イギリスではそんなに昔から、一般人がドライブを楽しむほどの自動車社会になっていたのか、という疑問も湧いてくるのですが、参考までにこちらサイトを覗いてみると、どうも1920年代というのは、自動車産業及び交通網というものが、イギリスのみならず世界中で爆発的に発達した時期だったようです。
そうしてみると、レイ・デイヴィスは「アーサー」というこの歴史絵巻の中にあって、時代が自動車全盛期に入ったことを、この曲において暗示したかったのかも、という見方をするのはちょっと飛躍のし過ぎでしょうか。


さて、話はガラリと変わります。
実は、僕はこの『DRIVIN'』という曲こそが、キンクスというバンドの立ち位置を示す、最高のサンプルであると思っているのです。

『DRIVIN'』は、1969年10月の「アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡」アルバムの発表より前の、同年6月に先行シングルとしてリリースされました。
ということは、リスナーはその当時、アルバムの情報も何もなしに、キンクスの新曲としてこれを聴かされたことになりますね。
アルバムが発表された後になれば、この曲はアーサーの物語の一部なんだと、「アーサー」の時間軸を意識して聴く事が可能です。しかし、6月のシングル・カットに際して、予備知識もなく曲を聴いたリスナーは、一体何を思ったでしょう。

出だしの数フレーズを聴いた者は、恐らくみな一様にベトナム戦争を想起したと思います。
そして、ベトナムを想起したリスナーは、キンクスのこの曲を、こんな風に受け取ったんじゃないでしょうか。

 アメリカがベトナムでやらかしている戦争は泥沼化しつつある。
 これは決して良い事態じゃない。
 それはもちろん分かってる。

 「でも…」

 でも、今日はいいお天気だからドライブに行こうよ。


1969年、ジョン・レノンはヨーコとのベッドイン・イベントで、ベトナム反戦を訴えました。
ストーンズはその前年に、アメリカの「長く暑い夏」と言われた黒人暴動を助長するかのような『STREET FIGHTING MAN』を発表し、69年の『GIMME SHELTER』でも戦争のイメージを提起しました。
同時代のミュージシャンが、何らかの形でベトナム戦争をはじめとした世界の暗部に異議申し立てをする中にあって、レイ・デイヴィスが歌ったのは、なんと「見て見ぬ振り」の歌だったのです。


賛否両論あるでしょう。
むしろ、否定的な声のほうが大きいかも知れません。
でも、これがレイ・デイヴィスの終始一貫した姿勢なのです。
「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」氏や「トミー」氏のようなカリスマでも何でもない、「一般大衆」の側に立つ彼は、当たり前の人間が、当たり前に考えることを歌にします。

1969年当時、ベトナム反戦に声をあげていたイギリス人は、一体何人いたでしょう。
もっと言えば、曲の発表から40年を過ぎた今、イラクやアフガニスタンで起こっていることを知りながら、それに対して行動を起こす日本やイギリスの「庶民」の数は、一体どれほどのものでしょう。

僕だってイラクやアフガンやイスラエル、コソボやミャンマー、その他政情不安定な国々で暮らす人に、早く平和が来ればいいとは思います。
でも、そうしたことに後ろめたさを感じながらも、もしも今日、天気が良ければドライブに行きたいと思ってしまう。

レイ・デイヴィスが、遠い昔に自分自身の命題として掲げたのは、僕のような何でもない人間を代弁することだったのだと思います。
僕たちがキンクスの歌に、不思議な人間臭さと親近感を覚えるのは、それはつまり彼らの歌が、とりもなおさず「僕の歌」だからなのかも知れません。


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| Arthurを読み解く | 18:22 | comments(4) | - | pookmark |
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