みんなが夏の写真を撮ってるよ
誰かがそれを忘れてしまった時に
そんな夏が確かにあったことを証明するために
父親たちは母親たちを写してる
姉妹たちは兄弟たちを写してる
お互いの愛情を示し合ってるんだ
写せっこないのは
僕らが若くて自由だった頃に
君が奪っていった僕の愛情
色んな物が昔どうだったかなんて
これ以上それを僕に見せないでくれるかな
みんなが互いの写真を撮りあってるよ
本当にここにいるんだってことを証明するため
本当にここにいるんだってことを証明するためにさ
みんなが互いの写真を撮りあってるよ
誰かが他の誰かにとって大切だった瞬間が
永遠に残されるんだ
みんなが夏の写真を撮ってるよ
誰かがそれを忘れてしまった時に
そんな夏が確かにあったことを証明するために
みんなが互いの写真を撮りあってるよ
誰かが他の誰かにとって大切だった瞬間が
永遠に残されるんだ
古い樫のそばに座って親指をしゃぶる
僕が3歳だった頃の写真
ああ、あの頃のことを
僕がどれほど愛おしく思っていることか
頼むからこれ以上僕に見せないでくれるかな
レイ・デイヴィスは、この曲の着想を、自身が参列した結婚式から得たといいます。
式が終わった屋外で、新郎がやにわにカメラを取り出して、新婦の写真を撮り出すと、今度は新婦が新郎の写真を撮り始め、更には、新郎新婦の父母や列席者までもがお互いの写真を撮り始めるといった、まさにこの曲そのままの光景が、実際に繰り広げられたのだそうです。
そんな知識を頭に入れて聴けば、まさに結婚式後のパーティーで、ポルカ風(?)の弾むような曲調に乗せて、人々が楽しげにお互いを写し合う、ハッピーで可愛い場面が浮んできます。
しかし、そこは冷静な観察者たるレイ先生のこと、当然ながらハッピーなままでは終わらないんですね。
結局彼は、この曲の主題を、そうした幸せなシーンではなくて、ブリッジとなる部分に持ってきました。
僕は前回の記事で、レイ・デイヴィスは写真否定派のようだと書きましたが、彼のその考えは、この曲の途中に挿入される「これ以上僕に見せないでくれるかな」の一言に表れていると思います。
徹底した個人主義者である彼は、人々が写真を撮り合う風景を傍観しながらも、決して自分自身をその輪の中には入れないで欲しいと願います。
なぜなら、彼は写真というものを全く信用していないからです。
彼の写真に対する不信感は、その自伝的小説『X-RAY』の中のセリフに現れています。
「写真?ハッピー・スナップ?何の意味もない。カメラは真実を伝えると言われるがうわべだけだ。機械が解釈した現実を見るより、自分の頭の中にあるイメージを伝える方が良い。また古いナヴァホ理論だが、写真は魂を抜き去る。わたしは子供の頃から写真を撮られるのが嫌いだった。写真を撮られるのが普通のこの世界に入って私がどう感じたかわかるだろう。だから写真では実に情けない顔をしているんだ。『写し合った写真』というわたしの曲を聞いたことがあるか?わたしが写真のイメージの世界に対してどう感じているかを歌った歌だ」
「写真はノスタルジーを呼ぶだけだ。わたしは人々の姿をそのまま思い出したい。写真はその人が年齢を重ねたことをさらけだす。ところが思い出の中では人は年をとらない。だめだ、カメラは残酷だ」
「カメラは嘘はつかないかもしれないが、正直とは限らない。ほんの小さなかけらを狭い視野の中で見せるだけだ。何十秒分の一かの小さな人生の断片だ。両義的であるべき事柄を絶対的にしてしまい、個人的な解釈の余地がない」
うーむ、若干矛盾を感じる部分もありますが、言っていることは分かります。
思い出というのは、人の内面にのみ留まるものであって、写真に封じ込められた過去の場面は、それは思い出とは言わない。なぜならば、写真というものは機械が解釈した現実の一断面に過ぎず、それが必ずしも真実を伝えているとは限らないから、ということですね。
写真は現実を写すけれども、人の内部の感情や思想までもは写せない。人の気持ちは刻々と移り変わって行くのに、写真というものはそうした時の流れや、見る者のいま現在の感情をすべて無視して、過去の姿を無理やりに、そして機械的に突き付けてくる。
だからこそ、写真に対するそうした諸々の葛藤を表現して「これ以上それを僕に見せないでくれるかな」となるのでしょう。
ただ、彼はそのように写真に対して不信感を露わにする一方で、絵画に対しては信頼を寄せる発言をします。
いわく「偉大な絵描きは真実の見方を知っていて、好むと好まざるとにかかわらずカンヴァスにそれを描く。アーティストは内面の経験をすべて描くのだ。カメラは表面をなぞるだけだが、アーティストはその内部の思想を描くのだ」
彼の言葉をすべて鵜呑みにするつもりはありませんし、様々に異論も出る考え方だとは思いますが、しかし僕は恐らくこの言葉は、レイ・デイヴィスの表現者としての哲学なのだろうと考えます。
もちろん彼は絵描きではありませんが、この物事の表面だけでなく内面までも正しく描き出そうという手法は、彼がキンクスでずっと積み重ねてきた表現のやり方だからです。
若干話がそれましたが、それではそれらのことを踏まえて、「Village Green Preservation Society」というアルバムの中での、この曲の立ち位置を考えてみましょう。
この曲は、アルバムに収録された他の曲と同じように、村で起こったある一日の断面を歌っているように見えて、実はアルバムのテーマに直結したひとつの思想を歌っているものと思われます。
すなわち、このアルバムを通してキンクスは“Village Green”をPreservation(保存)したいと願っている。けれども、カメラに映る風景のような、表面的なものだけを守るのでは何にもならない。やはり物事の本質となる何ものかを守って行かなければ駄目なのだ。
習慣や伝統や人々の想いといったものには形がなくて、写真に残すことなどはもちろん不可能だけれども、僕たちが第一に守るべきは、まさに形のないそれらであろう。
つまりキンクスの守りたい“Village Green”とは、人々の想念や感情、思いやりや記憶、あるいは習俗や信仰、儀礼といった、形のない(=写真になど映らない)ものの中にこそ存在するのである。
僕たちはそれらを守るのだ。
いやまあ、レイ・デイヴィスがこの曲に、そこまでの意味を込めていたかどうかは定かでありませんが、しかし歴史に残るコンセプト・アルバムのエンディングとして選ばれた曲なのだから、それくらい言外の意味のあるほうが、むしろ当然だろうと考えます。
さてさてところで、前回「Picture Book」のところで保留にしておいた、ひとつの疑問が残っています。
それは、曲の中で歌われている写真は、どうして主人公が子供の頃のものばかりであるのかという点でした。
具体的には「昔々、君が幸せな赤ちゃんだった頃のものだよ」云々といったくだりですね。
それを念頭に「People Take Pictures of Each Other」の歌詞を見ると、またしても『僕が3歳だった頃の写真、あの頃のことを僕がどんなに愛おしく思っていることか』とあります。
なぜ主人公は赤ちゃんだった頃が幸せだったのでしょうか?
それは、もしもこのアルバムの主人公が、これまでに仮定してきたようにレイ・デイヴィスの分身であるとするならば、答えは恐らく「デイヴ・デイヴィス」にあると思います。
レイという人は、女ばかり5人姉妹の家に生まれた、初めての男の子です。
だから弟が生まれる3歳の頃までは、それはそれは大切に育てられたのです。
そんなレイ・デイヴィスの、最も幸せな時代が崩れ去るのが1947年2月3日、つまりデイヴ・デイヴィスの誕生日。
それはレイが3歳になる直前のことでした。
デイヴが生まれる前までは僕は幸せだったのに、というレイの現実のトラウマが、これらの曲のモチーフとなっていることは想像に難くありません。
デイヴィス兄弟の確執というのは、その発端が幼児期にまで遡れるほど、根の深いものなのですから。
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