君の知ってる人達について歌うよ
それほど遠くもない昔に
話題を独占した人達のことさ
今では過去の人になってしまった
彼らはみんなどこにいるのだろう
スィンギング・ロンドンの象徴たちはどこだ
オジー・クラークやマリー・クヮント
それにクリスティーン・キーラーも
ジョン・スティーヴンそれにアルヴァロ
一体どこへ消えたのだろう
Mr.フィッシュにMr.チョー
彼らはみんなどこに行ってしまったのだろう
テディ・ボーイたちは今どこだ
ブリルクリームで髪を固めた少年たち
細身のパンツにブルー・スェード・シューズ
プルオーバーを着たビートニクス
コーヒー・バーと反戦運動
テディ・ボーイたちはどこに行った
アーサー・シートンは元気でいるかな
チャーリー・バブルスは愉快にやってるかな
ジミー・ポーターは巧く笑えるようになったかな
ジョー・ランプトンは上流階級になじんでいるかな
怒れる若者たちは今どこだ
バーストウやオズボーン
ウォーターハウスにシリトー
一体どこへ消えたのだろう
プロテスト・ソングはどこにある
怒れる若者たちはどこに行ってしまったのだろう
ロッカーズやモッズ達はどうなったんだろう
上手いことやってちゃんとした仕事に就いているといいな
ああ、でもロックン・ロールはずっと生き続けているよ
そう、ロックン・ロールだけはずっと生き続けているんだ
先に「Sweet Lady Genevieve」を歌った、あのTrampが再登場してソロをとる、一風変わった60年代賛歌。
当時一世を風靡した人たちの名を次々に挙げて、「彼らはみんなどこに行ってしまったのだろう」と歌うことで、『Village Green Preservation Society』の時代を懐かしみ、暗に今現在の不毛を訴えるという構成になっています。
輝いていた往時を回想するということは、裏を返せば、今現在のVillage Greenが、さほど面白くない場所になっているということなのでしょう。
ひとつ前の「There's A Change In The Weather」に続いて、何となしに村の未来を暗示するかのような内容です。
基本的に固有名詞を列挙する曲なので、ここから先は曲中に登場する人々のプロフィールを記すことで、解説に代えたいと思います。
スィンギング・ロンドナーとして最初に名前が出て来るオジー・クラーク(Ossie Clark)は、60年代に自身のブランド“Ossie Clark”で活躍したファッション・デザイナー。
顧客にはミック・ジャガーやブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリックスといったミュージシャンから、ブリジット・バルドー、エリザベス・テイラーなどの女優まで、そうそうたる顔触れがそろっていたそうです。
次のマリー・クヮント(Mary Quant)は、現代の日本においてもアパレルから化粧品まで、幅広く展開している著名なデザイナーですが、60年代当時は、ミニスカートの発案者として人気を博していたといいます。
クリスティーン・キーラー(Christine Keeler)は、1960年代初期のヌードモデル兼売春婦。駐英ソ連大使と関係を持ちながら、ハロルド首相の陸軍大臣であったジョン・プロヒューモにも接近し、ハロルド政権退陣の引き金となった「プロヒューモ事件」を引き起こした人物だそうです。スキャンダル好きの英国人にとっては一種のアンチヒーローなのかも知れませんが、当時の人気がいかほどのものであったのか、僕には知りようもありません。
ジョン・スティーヴン(John Stephen)は、カーナビ―・ストリートにあったブティック“His Clothes”のオーナー。花柄やフリルといった、女性的な飾りを男性用の服に取り入れて、当時台頭しつつあったモッズやゲイの人気を集めました。
アルヴァロ(Alvaro)というのは、恐らくですが、1960年代半ばにAlvaro Maccioniという人が、キングス・ロードにオープンしたイタリアン・レストラン“Alvaro's”のことでしょう。(あるいはオーナーのAlvaro Maccioniその人のことかも)
開店と同時に、ロンドンのセレブ御用達の店になったということなので、これもやはりスィンギング・ロンドンの、ひとつの側面かなと思います。
Mr.フィッシュとMr.チョーも、Alvaro'sと同じく、ロンドンにあったレストランのことだと思います。
曲の中盤以降に出て来るアーサー・シートン(Arthur Seaton)は、後に登場するアラン・シリトーが1958年に書いた小説『土曜の夜と日曜の朝(Saturday Night and Sunday Morning)』の主人公。
同じくチャーリー・バブルス(Charlie Bubbles)というのも、1967年に公開された同名のイギリス映画の主人公。
ジミー・ポーター(Jimmy Porter)は、これも後に名前の出て来るジョン・オズボーンの戯曲『怒りを込めて振り返れ(Look Back in Anger)』の主人公。
余談ですけどOasisの曲「Don't Look Back in Anger」というタイトルは、この「怒りを込めて振り返れ」から来てるんでしょうね。
次のジョー・ランプトン(Joe Lampton)は、1959年に公開されたイギリス映画『年上の女(ひと)』の主人公。
これらの4作品は、いずれも50年代から60年代にかけての保守的なイギリスで、現状に不平不満を抱えて生きる、所謂“怒れる若者たち”を描いた問題作ばかりです。
そして、歌詞は次の段落で、それら“怒れる若者たち”を描いた実在の作家たちに言及します。
最初に出て来るバーストウというのは、『或る種の愛情(A Kind of Loving)』を書いたスタン・バーストウ(Stan Barstow)。
次のオズボーンは、先に出てきた『怒りを込めて振り返れ』の作家ジョン・オズボーン(John Osborne)
ウォーターハウスは、1959年の『うそつきビリー(Billy Liar)』を代表作とするキース・ウォーターハウス(Keith Waterhouse)。
そして最後のシリトーは、先の『土曜の夜と日曜の朝』や『長距離走者の孤独(The Loneliness of the Long Distance Runner)』で有名なアラン・シリトー(Alan Sillitoe)。
ということで、ここに登場するのは、既存の文化に反発して新しい文化を生み出した、カウンター・カルチャーの申し子のような人たちばかりですね。
さて、そこで思うのは、これらの人物名を列挙することで、結局レイ・デイヴィスは何が言いたかったのか、という事です。
それはまず、冒頭に挙げたように、かつて活躍した人々の不在を嘆き、その対比として現状を憂うという、そういう効果はあるとは思います。
ただ、最終的には、僕はここでレイが言いたかったのは、やはり最後の2行に尽きるのかな、という気がします。
時代の先端を行っていたスィンギング・ロンドナーや怒れる若者たち。
彼らも時の流れと共に過去の人になってしまった。
しかし、そんな中に唯一生き残っているものがある。
それはロックン・ロールである、と。
つまり、万物が流転し諸行無常を感じる中にあって、絶対的普遍の存在としてそこにある“ロック”に対するレイ・デイヴィスの確信。
普段はそういう風には見えないけれども、レイという人は、ステージでの有名な
“Rock bands will come, And rock bands will go, But rock 'n' roll's gonna go on forever!”
のアナウンスに見られるように、ロックの永遠性というものに絶対的な信頼を置いているようです。
時代に流されないロックン・ロールの普遍性。
このことをレイはここで声高に言いたかったのだとは思います。
ただ、しかし、それがなぜこのPreservationの物語の中に、このような形で組み込まれているのか、僕はそれについては未だに分からないままでいます。
この最後の2行さえなければ、話はもっと単純だったんですけどね。
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